その涙が、やさしい雨に変わるまで
 ***

 翌日、三琴が出勤すれば、一目散にやってきたのは彩也子であった。
 ロッカー室で鼻息荒く、今度はこう訊く。
「殿下のお兄さま、本当にお怒りになっていなかった?」
 三琴が脩也と夕食の約束しているのを目撃していて、その席で自分のことが話題になったのではと彩也子は気が気でなかったのである。

(あ……)
(そうよね、私と瑞樹さんのこと、脩也さんのことも知らないから、苦情を受けていたと思うわよね)
(失恋を慰めてもらったなんて……いえない)

「大丈夫よ。高崎さんのことは、ひと言も出なかったから」
「そう? ……ならいいんだけど」
 ふうと、彩也子は大げさなため息をついてみせる。

 彩也子は受付カウンターでそれなりの地位の来社客に会っている。とはいえ、受付嬢が対応するのは社屋に入った最初だけ。はじめにそつなくこなしてしまえば、もうあとは別部署の担当だ。
 昨日の脩也との問答は、一応自社社員とはいえ事業部幹部クラスとの対話になる。それが一瞬で終わらずあんなに長々と、また通常とはかけ離れたものになってしまって、いろいろな緊張があとから彩也子にやってきたのだろう。

「で、松田さんは、どうだった? ご飯なんか、お付き合いしちゃったけど……」
「はい? 何が?」
「いや、なんていうか……お酒の席で、口説かれちゃったりしなかったのかなぁ~って」

 自分のことが一件落着して、彩也子の心配の対象が三琴へ向かう。

「は? 口説く? 誰が、誰を?」
「殿下のお兄さまが、松田さんのことを」
 
 なんと、彩也子の中では脩也はすっかりナンパ男となっていた。
 同じ自社の幹部であっても、『殿下』とは対応が雲泥の差だ。第一印象がすべて、なんていわれるのがわかるような事例である。

 ここで、ぷっと三琴は吹き出してしまった。目にうすく笑い涙を浮かべ、小刻みに肩を震わせながら。

 すぐさま彩也子は、
「なによ~、ひとが心配しているっていうのに」
「ええ~、だって、あり得ないから」

 そう、それはあり得ないことである。
 脩也の中では、破談になったとはいえ、三琴のことは義理の妹である。最初の出会いが瑞樹のカノジョであれば、もうそれしか彼の中にはない。
 それは三琴にだって同じ。三琴にすれば脩也は、なりそこなったけど、義理の兄である。
 三琴と脩也、どちらもがそんな認識だ。だからこそ、気軽に食事に出れたのであった。

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