3121号室の狼〜孤高な冷徹御曹司の愛に溺れるまで〜
配膳の仕事でヘトヘトになったところ、更に片付けの仕事までこなすとなると、流石に心身ともに限界を感じ、ようやく作業がひと段落する頃には、今にも倒れそうなくらい疲労がピークに達していた。
余りの忙しさに余計な考えをする暇がなかったのは幸いかもしれないけど、バンケットスタッフのお手伝いが解除された頃にはもう歩くのもままならない状態だ。
私は一旦自分の仮眠室へ戻って一先ず休憩を取ろうと、一人通路を歩いていた時だった。
突如鳴り出した楓様の呼び出しベル。
その瞬間、大きく肩が飛び上がり、進めていた歩みをピタリと止める。
いつもなら、このまま直ぐに駆けつけるところなのに、今はあまりあの部屋に近付きたくない。
楓様はあの時配慮すると仰っていたので、もしかしたら行為はもう終わったのかもしれない。
けど、泉様がまだあの場にいらっしゃる可能性は十分ある。
それとも、呼び出したのは楓様ではなく、また泉様のイタズラだったとしたら……。
人に見られるのがお好きだと仰ってたし、また営みの最中に遭遇でもしてしまったら、私は狂い落ちてしまうかもしれない……。
そんな様々な思惑が交差する中、兎に角バトラーである以上呼び出しは絶対なので、雑念を払拭し、私は震える心を何とか鎮めさせると、来た道を引き返して3121号室へと向かう。
「……あ」
すると、お部屋に続く通路を歩いていると、前方から歩いてくる泉様とばったり遭遇し、私は密かに胸を撫で下ろすと、そのまま対峙するように私達はその場で立ち止まった。
暫くこちらを無言で凝視してくる泉様の視線には、相変わらず敵意しか感じなくて、私はどうすればいいのか対応に困り狼狽えてしまう。
その時、ふと泉様の胸元から首にかけて、まるで虫刺されのような赤い小さな斑点模様がいくつも見え、私は気が気でなくなってきた。
「あの、首元大丈夫ですか?もし痒かったりしたらお薬をお持ちしますよ」
ちょっと前までは何もなかったのに、もしかしたらアレルギー反応の一種なのかとも思いながら、心配になって彼女の顔色を伺う。
「……ぷっ。嘘でしょ?あなたいくつなのよ。ていうか、時代遅れも甚だしいんじゃない?」
それなのに、泉様は急に吹き出すと、まるで小馬鹿にするように笑い始め、何故そのような態度を取られているのか訳が分からず再び狼狽えてしまった。
「……なるほどね。だから、楓さんは私の要望に答えなくなったのね。……こんな女の為に」
それから、何やら思い詰めるように私から視線を外した後、最後には憎悪を込めたような視線を向けられ、私はその意味が全く理解出来なかった。
とりあえず、何事もなさそうなので一先ず胸を撫で下ろすと、丁度私達しかいない状況に、ここはいいチャンスだと思い、意を決して拳を強く握りしめる。
「あ、あのご無礼を承知でお聞き致しますが……泉様は、楓様のことを愛していらっしゃいますか?」
本当に初対面で、しかもおそらく何処かの財閥のご令嬢の方に対して、何とも身の程知らずな質問をしているのだろうと思うけど、聞けるなら今しかないと思い、私はなりふり構わず泉様に踏み込んでみる。
「…………は?何それ?あんた何様のつもり?」
案の定。暫しの沈黙が流れた後、これまた泉様に思いっきり睨まれてしまい、私は今にも心臓が飛び出しそうなくらい暴れていて、冷や汗が流れ始める。
けど、ここは絶対に引いてはいけないと自分に言い聞かせ、逃げ出したい気持ちを抑えてその視線を一身に受けた。
「……まあ、いいわ。愛しているわよ、当たり前じゃない。頭がキレて、実力もあるし、何よりも物凄く美形で格好良いし、キスもエッチもめちゃくちゃ上手いしで、あんなお方なかなかいないわよ。正に理想とする男性よね」
なかなか引き下がらない私を見て諦めがついたのか。泉様は深い溜息を吐くと、今度は視線を明後日の方向に向けて、頬を染めながらうっとりした表情で楓様のことを語り始める。
私は泉様の最後の言葉を聞いて、またあの生々しい光景が脳裏に浮かびそうになり、気付かれないように首を小刻みに横に振った。
「でも、楓さんは私を愛してくれない。今日だって本当は朝まで一緒に居たかったのに、あの方は他人と寄り添うことが嫌いみたいね」
そう仰ると、泉様は急に表情を曇らせ、二度目の深い溜息を吐き、私から視線を戻す。
「けど、私が求めれば夜のお相手はしてくれるから、それだけでも構わないわ。……っま、お父様達には秘密だけどね。そもそも、あの方は誰かを愛することなんて出来ないのだろうし」
そして、諦めたような顔付きで言い放った泉様の言葉に、私は聞き捨てならないと、思わず眉間に皺を寄せてしまう。
「寂しければ妊娠しない程度に恋人を作っても良いって仰って下さったしね。恋愛ごっこは別の男性で出来て、夜のお相手は楓さんがしてくれるなんて、最高の話じゃない?しかも、跡継ぎは考えなくていいみたいだし」
それから、とても満足気に微笑みながら話す内容に私は全く理解することが出来ず、あまりの身勝手な言い分に怒りで体が震えてくる。
「あ、あなたは楓様のことを何だと思っていらっしゃるのですか!?」
気付くと、沸き起こる感情が漏れ出てしまい、私は声を張り上げて泉様を怒鳴りつけてしまった。
その時、私の言葉が逆鱗に触れたのか。泉様は思いっきり顔を歪ませると、突然私の両肩を押さえてきて、壁に強く打ち付けてきた。
「あんたみたいな女に何が分かるのよ?こっちは政略結婚なんだし、楓さんは私を愛してくれないのよ。それなら、許容範囲内であれば別に好き勝手にしたって構わないでしょ?」
私を睨み付けるその眼差しは今まで以上に憎しみが込めれらていて、肩を掴んでいる手にも力がこもり、私は痛みの余りつい顔を顰めてしまう。
「それに、私は婚外子の妻になるのよ?先々周りからどんな目で見られるのか考えただけでも憂鬱だわ。それだけリスクを負うのだから、これぐらいの恩恵を受けて何が悪いって言うのよ?」
そこまで言い終わると、泉様は不意に私の肩から手を離し、興が覚めたように真顔に戻ると、この場から離れて長い髪をかき上げた。
「……まあ、そういうことだから。あなた楓さんに気に入られているのかは知らないけど、私達の結婚に余計な手出しをしたら絶対に許さないわよ」
最後には射抜くような鋭い目つきで警告してきて、泉様は足早に立ち去って行かれた。
私はその後ろ姿を暫く呆然と眺めていると、段々と沸き起こってくる怒りと悲しみに涙が溢れそうになってくる。
楓様をリスク扱いするなんて。
そんな方が心から愛して下さるなんて、到底思えない。
確かに、自分の意思ではない結婚と、相手が自分を見てくれない辛さには同情してしまうけど、それでも相手のことを理解するつもりがあれば、歩み寄れるはず。
けど、あの方にはそんな意思はない。
それに、まるで楓様を快楽の一つとしか考えていない様子に、理由がどうあれ私は絶対に許すことなんて出来ない。
そして、この結婚がお二人にとって何も報いにならないことは火を見るより明らかだった。