冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


「で。君はなんで商社に就職したの? 海外飛び回って大きな仕事ができて、やりがいがありそうだから?」

帰らないのか――そんなことを頭の片隅で考えながら、九条の問いに答えた。

「採用面接の時は、そんなようなことをもっともらしく答えましたが、本当は違います」

この人には建前なんて通用しない気がした。そして、建前で会話をしたくない。咄嗟にそう思っていた。

「会社員の中では給料が一番高いと言われている業界だからです。私にとっては、熱い思いなんてものより収入の方が大事で。だから大学の4年間は必死で勉強しました」

何か特別資格を取りたいという気持ちもなかった。起業するほどのアイデアもない。一会社員として高給を得られるのは商社だと思ったのだ。

「……正直だね」
「す、すみません。新入社員のくせに、こんな志じゃだめですよね――」

さすがに初対面の相手に本音を言いすぎたか。軽蔑されたかもしれない――。

「いや、謝らなくていい。むしろ、そういう人間の方が信用できる」
「え?」

九条の言葉に、思い切りその顔を見つめてしまった。

「人が働くのに金のことは何より大事なことだ。生きていくのに絶対に必要なものだからな。だからこそ、金のために働く人間は仕事に対して責任を持てたりする」

もうずっと、いかにして稼ぐかしか考えていなかった。周りの友人たちが楽しそうに未来を語る中で、自分は何かが欠落した人間になってしまったと落ち込んだこともある。

「夢だ情熱だなんてもののために働いてる奴よりよっぽどな」

よく知りもしない初対面の人間だとしても、そんな風に言ってもらえたことは、麻子にとって嬉しいことだった。自分という人間を肯定されたみたいで、心にじわじわとその言葉が沁み込んでくる。
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