冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「九条さんは、凄い人だと聞きました。仕事に対する夢や情熱を誰よりも持っているんだろうなって思っていたので、少し驚きました」
目に熱いものが滲みそうになって慌てて引っ込める。
「君の方こそ。新入社員なのにそんなに現実的なのはどうしてだ?」
麻子の疑問には触れずに九条が麻子の目を覗き込んだ。
「……私、両親がいないんです。父親は私がまだ母のお腹にいるうちに家を出て行って、母が私を育てていました」
父親はもちろんのこと、母親もめちゃくちゃだった。あまり、昔のことは思い出したくない。
「その母も私が中3の時、事故で死んだんです。それから、伯父の家に引き取られました」
さっき飲んだ酒が効いてきているのだろうか。初めて会う人の、それも同じ会社の人にこんなことを話しているのは、この状況が特別だからか。自分でもよくわからない。
「その家庭にとって自分が異物であることはよくわかっていました。とにかく迷惑をかけないようにと、早く自立して、誰に頼らなくても自分の力で生きていけるようになりたいってそればかり考えて。私にとって頼りになるのは現金だけなんです」
最後は冗談めかして話した。あまり深刻なこととして話したくはなかった。惨めだというのもある。特に、この会社に困窮世帯で生きて来た人間はいないだろう。そういう人間から同情されたりはしたくない。
「大学の時が一番お金に困ってましたから。就活の時は、会社案内を見るとき、一番に給与の欄を見てました」
高校卒業と同時に地方の伯父の家を出て、上京した。東京の国立大学に入り、アパートを借りて、学費も生活費も、奨学金とバイト代で全て賄ってきた。それはそれは、毎日綱渡りのような生活だった。バイトバイトで働きまくった。だから“ド根性女“だ。
「……だったら、とにかく仕事ができるようになれ。女も男も関係ない。一人で生きていくには、それが全てだ」
憐れむ言葉でも、同情する言葉でもなく。九条はただそうとだけ言った。
「はい。頑張ります」
それ以上何も言わず、九条はそのまま立ち去った。