冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
それから九条と会うことはなく、せいぜい、社内で遠目で見かける程度だった。
その翌年、麻子は語学研修制度を利用して2年ほどフィリピンに赴任した。帰国したら、九条は光の速さで出世していて、より遠い人間になっていた。
「――でも、4月に九条さんが麻子の課に来た時、正直ドキッとしたでしょ」
まだ美琴がそんなことを言う。
「だから。話したのも4年前のあの時の一回だけ。そのあとは全然接点ないし、全部過去のこと。それに、私これでも、今、彼氏いるんですけど」
4年前の出来事は、今では幻だったのではないかとさえ思えて来る。九条の方は、記憶にすらないみたいだ。麻子の顔を見ても、眉ひとつ動かさなかった。それは無理もない。あの時、麻子は名前も告げていなかった。
「ああ。ここ2ヶ月くらい会えてない彼氏ね」
「それは仕事がお互い忙しいからです」
フィリピンから帰国した後、偶然大学時代の同級生に再会した。それをきっかけに何回か会うようになって、交際を申し込まれた。そして今に至る。
「……だったら、私となんか飲んでないで、その彼氏の家にでも行けばいいのに。この時間なら、さすがに仕事終わってるでしょ」
「ここのとこ、祐介の仕事立て込んでるらしいから。疲れさせたくないって思って」
会えていないどころか、最後に会話したのがいつだったかもすぐには思い出せない。メッセージアプリで、短いやり取りするだけになっていた。
「それに、私にとっては恋人と同じくらい女友達も大事なの。もしかしたら、祐介より美琴の方が大事かも」
それは嘘ではない。美琴とは、仕事で苦しい時も何かを達成した時も、どんな時もお互いに励まし合い喜び合って来た同志だ。
「祐介より美琴との方が付き合い長いしね」
「そういうとこ。もう少し自分本位にならないと。せっかく美人なのに、麻子は男逃すタイプだよー」
「いいよー。美琴がいるから」
「何言ってんの」
結局、もう一杯ジョッキを注文した。