冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜

 キスが深くなるごとに、九条の手が麻子の身体を這う。

まさか、ここで――?

腕できつく抱き寄せられているせいで密着した身体。九条の心音と自分のものが重なって響く。いつものどこか余裕のあるものではない貪り尽くされるみたいなキスに、甘さだけではなく不安が湧き起こる。

 やっぱりいつもと何かが違う。

 必死に九条の唇を受け止めていると、冷たい手のひらがブラウスの中に入り込んできた。素肌に触れた指に身体が大きく跳ねる。

「あの、か……課長、流石にここでは――」
「キッチンで、したことある?」

なんで、そんなことを聞くのだ。

「あ、あるわけないです……あっ」

麻子に問いかけながらも唇はいつの間にか首筋に移り強く吸われる。それが強い刺激となって、身体に力が入らない。

「か、課長は、あるんですか?」

何とか正気を保とうとして、思わずそんなことを聞いてしまった。

「ないよ」
「だ、だったら……」
「言ったろ? 君を見ていたらいじめたくなるんだ」
「こ、こんなところで抱かれたら――」

気づけば胸元のボタンが外されている。肩からブラウスがはだけたところで、麻子はたまらず叫んでいた。

「明日からの業務に支障が出ます!!」

――。

一瞬なのか、数十秒なのか。九条の手のひらの動きは止まり、静寂が訪れた。目の前で九条が項垂れ肩を震わせている。

こんな雰囲気のところで叫んだりして、ドン引きした――?

「す、すみません……、わ、私、つい、びっくりして」

それでも九条は顔を上げない。

「け、決して、嫌だとかそういうんじゃないんです! ただ私、経験豊富ってわけじゃないので、あまりに刺激が強過ぎてしばらく頭から離れなくなると思うんです。明日から会社で絶対思い出しちゃって、課長の顔まともに見られなくなる。そうしたら、他の人に何か気づかれちゃうかもしれない。だから、すみません。空気読めない女で……」

慌てふためいた麻子は、思いつく限りの言葉を並べた。

「か、課長、ごめんなさい」
「……いや、怒ってない」

え――?

九条がようやく顔を上げると、見たこともないほどに笑っていた。

「え? 笑ってたの?」
「だって、そうだろう? あの雰囲気の中で『業務に支障が出る』はないだろ。私の欲もどこかに飛んでった」

あの課長が、声をあげて笑ってる――。

呆気に取られる。

 ひとしきり笑うと、九条が長い指で自分の前髪をかきあげて目を細めて麻子を見た。

「……全く、君は困った人だよ」
「すみません」

謝る麻子の頬に優しく触れ、甘く囁く。

「そういうところが、可愛くて困るんだ」

そんな目で見られたら、自分が想うように九条も自分を好きなのではと自惚れてしまいそうになる。

「私の方こそ悪かった。いじめすぎたな」
「……そ、そうですよ。課長はいいですよ、公私を厳格に分けられる人だから。私はそんなにうまく切り替えられません。どうしても仕事中に思い出しちゃうんですよ。それで顔にでも出たら大変です」

思い上がってしまいそうな自分を引き止めるように、甘い雰囲気を払拭する。

「周りに気づかれそうでか?」
「そう、です」

九条の手のひらはまだ頬にある。愛おしげに触れられ、顔をじっと覗き込まれ。恥ずかしくて視線を合わせられない。

「でも、そうなって一番困るのは課長ですよ」
「……そうだよな」

九条がそっと麻子の顔を自分の胸に引き寄せた。そのせいで、その表情はわからない。

「何があってもバレないようにって頭では思うのに、反対のことをしたくなる自分がいて困る」
「課長……」

抱き寄せた腕に力が込められた。

「私も、この年齢(とし)にもなって、まだまだ子供だったんだな」

その言葉は、独り言のように自嘲気味に囁かれたもので。深くため息を吐いた九条の感情がどんなものかはわからないけれど、奥底で何かを思っていることだけは伝わる。

「課長は、子供なんかじゃないです。私にとっては大人過ぎるくらいに大人です」
「そう見えても、実際はそうでもなかったりするものだ」

麻子を抱きしめながら少し寂しげに九条が言った。

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