冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
それは、残暑の厳しさが和らいで秋の空気が流れ始めた来た頃のことだ。プロジェクトの進行上の谷間みたいなもので、ふっと仕事が引いた日だった。
「こういう時に休んどくのが鉄則だぞー」
プロジェクトメンバーの山田が麻子と丸山に言った。
「二人とも目の下にくっきりとクマが刻みこまれてるからな。次またいつ時間できるかわからないんだから。じゃあ、お先」
そそくさと山田は帰宅して行った。
「逃げ足早いですねー」
「これまでの経験だろうね」
丸山の言葉に笑う。山田の言う通り、早く帰れる時は帰るべきだ。忙しい九条に変わって、溜まっている家事も少しは片付けておきたい。
「――あの」
「ん?」
少し緊張気味の声が耳に届いた。
「せっかく早い時間に上がれるし、少し飲んでいきませんか……?」
「あ……」
仕事の時はいい。こういうふうに、仕事の話から離れた瞬間だ。丸山の眼差しが何かを訴えているようで、麻子は警戒するようになっていた。
「ごめん。今日は家のことしときたくて。プロジェクト落ち着いたらみんなで行こうよ」
「……わかりました」
丸山の顔を見られなくて「じゃあ、私もお先に失礼するね。お疲れ様」と逃げるように執務室を出てしまった。
別に直接的な言葉を投げられたわけじゃない。ただの自意識過剰なのかもしれない。でも、少しの誤解も勘違いもさせたくないと、そんな行動をとってしまう。
久しぶりに人通りの多い時間にオフィスをでた。
課長は、今日も接待だと言っていたし帰りが遅いだろうな。本当に、身体壊さないでほしい……。
地下鉄の駅に向かいながら九条のことを考えていた時だ。
「――中野さん」
雑踏の中から自分を呼ぶ声がして。道行く人の波から、目の前に一人の女性が麻子の前に立った。
「中野さんでいらっしゃいますよね」
「どちら様、ですか……?」
誰――?
でも、どこかで見かけたような気がしないでもないような。黒髪が美しい、スラリとした綺麗な人だった。
「突然、すみません。丸菱商事副社長の娘で、河北すみれと申します」
副社長の娘――。
一瞬にして身体が固まる。社内で聞いた噂、九条と二人でいたところを見た光景がすぐに蘇る。
どうしてこの人が私のことを知ってるの?
どうして私に会いに来るの?
もしかして……課長との関係を知られてしまったのか――?
脳内で、疑問と戸惑いと恐怖が飛び交いパニックになる。
落ち付け――。
心の中で自分に向けて叫ぶ。
九条との関係を知られる訳には行かない。それだけは絶対だ。とんな要件で待ち伏せていたのか分からない。絶対に行動を間違えてはいけない。
必死に自分に言い聞かせる。
「失礼ですが、初対面ですよね。どうして、副社長のお嬢様が私をお待ちになっているんでしょうか。仕事のことなら社内でお話しできるはずです」
自ら余計なことを言ってはならない。
震えてしまいそうな足で、目の前の女性と真っ直ぐに向き合う。