冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「プライベートのことですが、お仕事と全く無関係というわけでもありません。今日は、中野さんにお話したいことがあって参りました。お時間いただけませんか?」
――仕事のことと全く無関係というわけでもない。
それは、どういう意味なのか気になる。
こんな風に、丁重に頼まれて断る方が不自然だ。本当は今すぐ逃げ出してしまいたいが、仕方なく頷いた。
そうして連れてこられた場所は、大通りから一本路地裏に入った喫茶店だった。高層ビルが立ち並ぶエリアの中で異質感が漂う古びたビル。一階にその店はあった。
「――お話の前にひとつお聞きしたいのですが」
副社長の娘、河北すみれがミルクティーを、麻子はブレンドコーヒーを注文した後、すぐに切り出した。こんな時間、一刻も早く済ませてしまいたい。世間話は必要ない。
「なんでしょうか」
初対面の人間を捕まえて連れ出したと言うのに、目の前の彼女はずっと余裕を振りまいている。
ゆっくりとした所作、仕立ての良いワンピースとジャケットという服装からも、育ちの良い女性だとわかる。それも当然だ。丸菱の副社長の娘なのだ。恵まれた環境で育って来た人だろう。
「どうして、私の顔と名前をご存知なのでしょうか」
「疑問に思われるのも当然ですよね。知らない人から呼び止められたら、いい気分じゃないですもの」
ふふ、と微笑んで口を開いた。
見れば見るほど綺麗な人だ。清楚で品のある顔立ち。どれだけ背伸びしても隠しても、その滲み出る気品には到底及ばない。
意味もなく勝手に惨めな気分に襲われた。
「わたし、今月から丸菱で契約社員として働いているんです。それで、あなたの部署に何度かお伺いした際にお顔とお名前を知りました」
契約社員――?
全然気づかなかった。最近仕事に忙殺されていて仕事以外のことを気に掛ける余裕なんて全くなかった。
「それで、今日、こうして中野さんにお時間取ってもらったのは、九条課長のことについてお話したいことがあったからです」
あらかた想像はしていたとはいえ、その名前を聞いた瞬間に表情を歪めてしまいそうになって、慌てて引き締めた。
「課長が、何か」
あくまで一人の部下としてここにいなければならない。
「単刀直入に申し上げます。九条さんとは別れてください」
たおやかに微笑む表情を少しも変えることなく、柔らかな声でそうはっきりと言った。
自分だって無駄な世間話は必要ないと思っていたのに。ストレートに突きつけられた言葉に声を失う。