冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
"私は、課長の部下でしかありませんから"
もう、その弁解を口にする気力もない。だからと言ってうまく切り返す言葉も浮かばない。
微かに震えてしまう手で冷めきったコーヒーを口にした後、両手でカップを置いた。
「――素敵な腕時計ですね。仕事ができる中野さんにぴったり」
九条から贈られた腕時計に目をやる。咄嗟にテーブルの下に左手を隠した。
「私は、中野さんみたいにバリバリ仕事が出来るタイプではないから、そんな風にかっこいいデザインのものは似合わないの。羨ましいわ」
彼女もカップを口にして、ニコリと微笑んだ。
「九条さんもそれを分かっているのね。私には指輪はくれても、そういうデザインのものはいただけなかった。私も、かっこいいものが似合う女性になりたかったけれど、妻になるのにかっこよさは必要ないわね」
すみれの左手薬指には、女性らしい華奢なダイヤモンドの指輪がはめられていた。そこにあるだけで、選ばれた人なのだと主張するみたいに。
九条は、彼女には指輪を贈っていたのだ。腕時計ではなく指輪を。
もう、分かったから。それ以上何も言わないで――。
今すぐ耳を塞ぎたくなる。
「中野さんには、これからもご自分のキャリアを築いてほしい。そう願っています」
そう言って、すみれはその表情から笑みを消した。
「これはもう、お願いするしかないのだけれど。今日のことは、九条さんには言わないでいてほしいの」
目の前の人の唇が動き続けるのを、ただ、見つめていた。
「今、彼がどれだけ大変な状況にいるか、直属の部下でプロジェクトメンバーのあなたなら分かっているでしょう?
このプロジェクトは全社を挙げてのビッグプロジェクト。成功すれば実績になるけれど、もし失敗したら、彼のキャリアにとって取り返しのつかないマイナスになる。
今、彼にのしかかっている責任とプレッシャーは、相当なもの。それを、あなたは邪魔できる?」
誰よりもそばで見ているのだから分かっている。毎日毎日、九条がどれだけ骨身を削り働いているか。
このプロジェクトの成否は、九条次第と言っても過言ではない。失敗すれば、数100億の損害を生み出すことになる。
そんな立場にいる九条を煩わせることなど、出来るはずもない。
「でも。もし、あなたが約束できないというなら、二人の関係を表沙汰にするしかない」
「……え?」
この人は、何を言ってるの――?