冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
愛しているとも好きだとも言われたことはない。社内では絶対にバレないようにと何度も念を押されている。
それは全部、婚約者がいたから?
私とは遊びだったから?
一時的な関係だと決めていたから――。
自分にとって残酷な想像は、悲しいほどに全て理にかなっている。疑問への正しい答えになってしまう。
どうしてだろう。今、自分の中を満たしている感情は、悔しさでも怒りでもない。悲しみだけだ。
私が、課長のためにできることが何もない存在だと言うこと――。
その事実が悲しかった。
すみれの言うとおりだ。自分には何もない。それどころか、むしろ、迷惑をかけて負担になるだけの存在でしかない。自分と付き合うことで、九条にデメリットはあってもメリットは何一つない。
面倒な親戚に金まで出してもらった。部屋にまで転がり込んで世話になって。
これまで、九条にしてきてもらったことを振り返れば振り返るほどに、自分という存在が惨めでどうしようもないものに思える。
そんなこと、最初から知っていた。自分の生い立ちも持っているものも。すべて分かった上で、九条に好きだと言ったのだ。
私、何やってたんだろう……。
虚な気持ちで喫茶店から出る。力なく歩きながら、考えることは九条のことばかりだ。
九条から、学生時代に苦労したという話を聞いた。でもその時、それ以上のことを彼は話さなかった。すみれには全てを話していたのに。
それがすべての答えなのかもしれない。
愛されていないという証拠も、自分では九条にとって相応しくないという事実も。これだけ離れるための理由を突きつけられているのに、どうしてこんなにも心はかき乱されるんだろう。
あの人と別れたくないと、もがこうとしてしまうんだろう。
何の決心もつかないままに、九条のマンションに帰って来てしまっていた。
すみれに言われるまでもなく、今、九条がどんな状況にいるか。嫌と言うほどに理解している。
それに、すみれに口止めもされている。
九条に何一つ言えない。
すみれの望みは、ただ私から離れること――。
でも、それは今日じゃない。そんなこと、すぐにできない。
じゃあ。
私は今日、何もなかったように課長に振る舞える――?
九条の顔を見られるのか。感情をすべて飲み込んで、他愛もない話ができるのか。
『お疲れ様』と笑顔を向けられる?
課長の隣で寝られるの――?
そんなの、想像しただけで無理だと分かる。
マンションのエントランスの自動ドアの前で足が止まる。
帰れない。
あの部屋には帰れない――!
「――麻子?」
「……っ!」
踵を返すと九条が立っていた。