冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜

 愛しているとも好きだとも言われたことはない。社内では絶対にバレないようにと何度も念を押されている。

それは全部、婚約者がいたから?
私とは遊びだったから?
一時的な関係だと決めていたから――。

自分にとって残酷な想像は、悲しいほどに全て理にかなっている。疑問への正しい答えになってしまう。

 どうしてだろう。今、自分の中を満たしている感情は、悔しさでも怒りでもない。悲しみだけだ。

私が、課長のためにできることが何もない存在だと言うこと――。

その事実が悲しかった。

 すみれの言うとおりだ。自分には何もない。それどころか、むしろ、迷惑をかけて負担になるだけの存在でしかない。自分と付き合うことで、九条にデメリットはあってもメリットは何一つない。

 面倒な親戚に金まで出してもらった。部屋にまで転がり込んで世話になって。
 これまで、九条にしてきてもらったことを振り返れば振り返るほどに、自分という存在が惨めでどうしようもないものに思える。

 そんなこと、最初から知っていた。自分の生い立ちも持っているものも。すべて分かった上で、九条に好きだと言ったのだ。

私、何やってたんだろう……。

 虚な気持ちで喫茶店から出る。力なく歩きながら、考えることは九条のことばかりだ。

 九条から、学生時代に苦労したという話を聞いた。でもその時、それ以上のことを彼は話さなかった。すみれには全てを話していたのに。

 それがすべての答えなのかもしれない。

 愛されていないという証拠も、自分では九条にとって相応しくないという事実も。これだけ離れるための理由を突きつけられているのに、どうしてこんなにも心はかき乱されるんだろう。

あの人と別れたくないと、もがこうとしてしまうんだろう。

 何の決心もつかないままに、九条のマンションに帰って来てしまっていた。
 すみれに言われるまでもなく、今、九条がどんな状況にいるか。嫌と言うほどに理解している。

 それに、すみれに口止めもされている。

 九条に何一つ言えない。

すみれの望みは、ただ私から離れること――。

でも、それは今日じゃない。そんなこと、すぐにできない。

じゃあ。

私は今日、何もなかったように課長に振る舞える――?

九条の顔を見られるのか。感情をすべて飲み込んで、他愛もない話ができるのか。

『お疲れ様』と笑顔を向けられる?
課長の隣で寝られるの――?

そんなの、想像しただけで無理だと分かる。

 マンションのエントランスの自動ドアの前で足が止まる。

帰れない。
あの部屋には帰れない――!

「――麻子?」
「……っ!」

踵を返すと九条が立っていた。

< 158 / 252 >

この作品をシェア

pagetop