冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜

「――明日の会議資料で、一つ追加してもらいたいものがある」

その場に九条が現れて、一斉に皆が姿勢を正す。

「契約締結の最終確認に、この資料をつけてほしい。今から作れますか?」
「メンバーの中で手分けしますので、大丈夫です」
「急な依頼で申し訳ないがよろしく頼む」

ぴんとした背中と少しの乱れもない髪。皆が知っている九条の姿そのものだ。

「ああ、そういえば課長。先ほど、課長が留守にされている時に、河北さんが課長を訪ねて来られました」
「河北……?」

立ち去ろうとした九条を秋元が呼び止めて告げた名前に、思わず九条を見てしまった。

「はい。副社長の娘さんなんですよね。最近、契約社員になられたとかで」
「それで、何か言っていましたか?」

九条は表情一つ変えない。

「いえ。また課長が在席の時にいらっしゃるそうです」
「わかりました」

麻子の方を少しも見ることなく、九条はその場から立ち去った。


「……ここだけの話」

九条が部屋を出て行ったのを確認してから、秋元が声を顰める。

「副社長の娘さん、かなり無理言って契約社員になったらしいよ」
「そうなんですか?」

丸山が声を上げた。

「静かに聞けよ」
「すみません」

丸山を嗜めた後、秋元が続けた。

「あの人、大学卒業してから一度も働いてなかったらしくて。なのに急に働きたいって言い出した娘に押し切られるように副社長がねじ込んだらしい」
「まあ、丸菱の副社長の娘なら働かなくても十分食わせてもらえるだろうしな。それにしても今更、どうしてだろうな」

山田が腕を組みながら聞いた。

「女子社員の噂にしか過ぎないけど、どうやら九条課長のためらしいよ?」
「課長? なんで」
「前からなんとなく、噂あっただろ? 副社長が娘を課長と結婚させたがってるって。事実かどうかはわからないけど。副社長の課長へのご執心ぶりは社内の人間なら皆が知ってるところだろ」
「まあ、課長にとっては最高にいい条件の縁談だな。副社長が義理父なら、怖いもんなしだろ」

山田と秋元の会話が重く重く心にのしかかっていく。

「九条さんと同年代の社員は、戦々恐々としてんじゃね? ただでさえ抜群に有能なのに、副社長なんてオプションまで付いてきたら、もう誰も敵わない。あの人に唯一足りないのは家庭環境だし。これでもう将来丸菱のトップ間違いないな」
「家庭環境……ですか?」

秋元の言葉に丸山が食いついた。

「ああ……あの人、親がいないらしい」
「マジですか?」
「俺も最近、たまたま副社長室で課長と副社長が喋ってるのが聞こえて来て知ったんだ。あの容姿と能力だろ? あの人は絶対いいとこの育ちだと思ってたからほんとにびっくりしたんだ」
「秋元、お前、いい加減にしろよ」

そこで山田の鋭い声を発した。

「そんな超プライベートなこと、こんなとこでペラペラ喋るなよ」
「怒るなよー。いいだろう? 副社長の娘さん美人だし、課長にとって最適の人だ。山田だって、課長にトップになってもらいたいだろ? 幸せにもなってほしいだろ。おまえは九条派だもんな」

手首の腕時計を右手で覆うように掴んだ。手のひらが痛くなるほどに。

「……中野さん?」
「あ、私、法務部行ってきます。参考資料もらう約束だったんです」

丸山の視線に気づいて、咄嗟にそう口にした。

「ああ、サンキュ。よろしくな」
「はい」

もつれそうになる足で、必死に歩く。

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