冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
あれだけ動揺していても、ミスなく仕事を終えられた。それだけが救いだった。
頭の中は、もうずっと酷くぐちゃぐちゃで。自分が九条の恋人だった事実が、手のひらからこぼれ落ちていく砂みたいになっていく。
この手首にある腕時計も、どこからやって来たものなのか。毎日、自分に優しく触れてくれる人が九条なのか。
事実なのか、想像なのか、分からなくなって。自分が現実にいるのか夢の中にいるのか曖昧で、恐怖で一杯になった。
それなのに、たどり着く場所はやっぱり九条の部屋だった。
着替えもせず、ダイニングテーブルの席に座る。
冷静になれ。今は何も考えるな――。
そう何度も必死に言い聞かせ続ける。
社内で働いているというすみれに、いつまた遭遇するか。九条は今、どういうつもりでこの関係を続けているのか。
いつ、私を切り捨てるつもりでいるのか――。
落ちつかせようとしているはずの心は、まったくいうことをきかない。
「――麻子、ただいま」
背後から突然聞こえた声に振り返る。
「……おかえりなさい」
咄嗟に笑顔は作っても、この声は少し掠れていた。
「麻子も帰って来たばかりか?」
スーツのジャケットを脱ぎながら、九条がこちらに近付いて来る。時間の感覚がまるでなくて、聞かれても分からなかった。
「ついさっき」
だから、適当に答えておく。
「仕事は偏ってないか? 何か困っていることは?」
「ないです。課長が選んだメンバーじゃないですか。みなさん、仕事のできる方ばかりで。すごく勉強になってます」
振り返った視線を九条から移す。
「なら、いい」
こちらへと近づいて来たはずの九条は、そうとだけ言ってリビングダイニングを出て行こうとした。
どこか冷たく聞こえた声に、もう一度九条へと振り向く。
やはり、全然冷静になどなれていなかったのだ。
「課長は……っ? 今日、何かありましたか?」
「いや、特に変わったことは何も」
「副社長のお嬢さんが課長を訪ねて来たことは? 特別なことではないんですか?」
九条の背中がくるりと翻って麻子を見た。自分の口から出てしまった言葉。もう、なかったことにはできない。
なんて子供なのだろうか。あれだけ、隠していようとしたのに、数日ももたないなんて。
引っ込みがつかなくなった惨めで情けない自分の感情をコントロールできない。
「このプロジェクトが副社長直轄だと君も知ってるだろう? それで彼女が私のところに来たところで何ら不思議じゃない」
恋人として見せる顔じゃない。今、こちらに向けられている九条の表情は仕事中に見せるそれだった。
“彼女“
九条の口から出たその言葉が胸に突き刺さって。感情が激しく揺さぶられた。
「……そうですか。すみません、余計なこと聞いたりして。課長は私に何も話してくれないから。ついこうして聞いちゃうんですよ」
何もかもぶちまけたいのに、口止めされたことが頭をチラついて。
“課長にとって大事な時だ。今じゃない“
負担をかけたくないという思いが、自分へのストッパーになって。余計に、中途半端で遠回りで皮肉な言葉たちが、次から次へと出てしまう。
「今日、ある人から聞いたんです。課長にはご両親がいないって」
心の遠くで、もう一人の自分がやめろと叫んでいる。これ以上口を開くなと警告している。なのに、止められない。