冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


「麻子――」

ドアに投げかけた声は、まるで意味などなかった。もうその姿は消えた後だった。

いや、これでよかった。
そうだ。これでいい――。

駆け出しそうな足をグッと押し留める。
廊下の壁にもたれさせた背を滑らせるようにして、足を投げ出し座り込んだ。

『課長といても、どうしても愛されてるって自信が持てなくて、苦しかった。課長といると辛いんです』


髪を乱暴にかく。

先ほど麻子が震えた声で言った言葉が、脳内を埋め尽く。

これでいいんだと言い聞かせるそばから、苦味と痛みが混じり合ったようなものが胸に流れ込んで思わず顔を手のひらで覆った。


 せめて付き合っている間は、できる限りのことをしてやりたいと思っていた。

二人でいられる間は、"幸せ"な感情だけで満たしてやりたかった――。

そう思っていたけれど、所詮そんなことは不可能な矛盾だったのだ。

 自分が与える側にいたようで、結局、誰より自分が麻子から幸せをもらっていた。

 どこにも誰にも渡したくないと欲が出て。

『いつでも解消しよう』なんて言った直後には、引き留めようとしていた。今この瞬間も、これまで感じたことのない痛みで胸が引き裂かれそうになっている。

 こうなることは予想できたのに、あの日、麻子をこの胸に抱き寄せてしまった。

 愛なんてものは必要とせずに一人で生きてきた。寂しさなんていう感情はとうに忘れ去っていた。

 もうずっと何も感じずに生きてきたのに、麻子に出会って知ってしまった。


 結局、その夜は一睡もできなかった。 

 バッグひとつで出て行ったから、もしかしたら戻って来るかもしれない。もしかしたら、連絡のひとつもよこしてくるかもしれないと、そんなことを考えていたら眠ることが出来なかった。

 麻子からは何の連絡も来ずに朝が来た。

 身体は鉛のように重いのに、妙に神経が昂る。
 脳内を(もや)のようなものが覆い、それを振り払うように頭からシャワーを浴びた。

『おはようございます』

一人で暮らしてきたマンションには、あの笑顔とあの声があるのがあたり前になっていた。
 朝は二人で新聞を読むのが日課で、そのあとは、麻子がいつも英語ニュースを流す。遅れて同じフレーズを口にしているのを聞く。
 麻子の英語は正確だ。帰国子女でもない彼女の努力の賜物だった。

 そんな刻み込まれた日常を振り払うようにスーツを着込んでいく。



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