冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
出勤してオフィスに足を踏み入れる瞬間、わずかに緊張が走った。
麻子に会うのが怖いのか。不安なのか。心配なのか。
あらゆる感情がせめぎ合う中、自分の席へと向かう中で、麻子が既に出勤しているのが視界に入った。
「課長、おはようございます」
「おはようございます」
課員たちが口々に朝の挨拶をして来る中に、麻子の声も混じる。そのことに心からホッとしたのも束の間。
「おはようございます」
チラリと見てしまった麻子の顔に胸が痛む。この日はいつもと違ってメガネをしていた。そのレンズの向こうがどうなっているのか。じっと見るまでもなく想像される。
「――丸山君、あのデータどうなってる?」
「ああ、あれはですね――」
麻子の視線は既に九条から離れ、丸山と額をつきあわせていた。それだけの至近距離で向き合っていたら、丸山も麻子の目に気付くかもしれない。
そうしたら、丸山は麻子を優しく慰めるだろうか――。
くだらない。
無意識のうちに頭を振る。
ひとまず、ちゃんと出勤して来た麻子に安心する。昨晩は安全なところで過ごせたということだ。
麻子には、もっといい男がいる。
当たり前の幸せを与えられる優しい男が――。
それは自分ではない。麻子を幸せにしてやれる男ではないこと。誰よりも自分がわかっている。
最近、丸山は変わった。野心と打算の塊だった男が、麻子を慕うようになってから仕事に対する姿勢が真摯なものになった。
二人が親密な関係になったら、それは喜ばしいことじゃないか。
最近、麻子の態度がよそよそしかった。もしかしたら、二人の距離が近づいているからなのかもしれない。麻子の心が丸山に移ったのなら、麻子が悲しまずに済む。むしろ好都合だ。
なのに――。
頭ではそう思えるのに、心はどうにかなりそうだ。
本当は、もうずっと心の中は嫉妬で狂っていた。
それを、麻子の前でどれだけ抑え続けていたかわからない。もはや、抑えることができていたのかの自信もない。
最初から、手放す日が来ることがわかっていて始めた関係だ。そして、残された時間があまりないことも。
それなのに、ぎりぎりまで足掻こうとした。麻子を手放したくないと、幸せな時間をギリギリまで引き延ばそうとしていた。
当初の目的を思い出せ――。
それだけは、何があっても必ずまっとうする。そのためにも、麻子を何者からも守らなければ。それがせめてもの、自分に出来る自分なりの麻子への愛だ。
その日一日、誰にも気付かれない程度に、麻子の様子に注意を払っていた。
麻子は、気丈に振る舞い、いつも通り、いや、いつも以上にしっかりと仕事をしていた。
責任感の強い彼女らしい。そう思うと同時に、苦しくなった。誰にも弱味を見せない、どれだけ苦しくても一人で踏ん張ってしまう人間だと言うことを誰よりも知っているからだ。