冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「今、どこにいるんだ? 何も持って出ていないが、大丈夫なのか……?」
引き止めておいて、出てきた言葉はそれだった。
「は、はい。とりあえず自分のアパートに戻っているので、身の回りのものには不自由していません。あっ……課長のところには私のもの、色々置きっぱなしですよね。すみません、近々片付けに行きますので。じゃあ」
離れていく背中を後ろから抱きしめてしまいそうになるこの手を、力一杯もう一方の手で握りしめる。
帰宅して、真っ暗なままの部屋に入る。
この疲労がどこから来るものなのかわからない。身体を引きずるようにして寝室に直行した。そのままベッドに身体を投げ出す。
横たえた身体を横に向けると、サイドテーブルに置いてある香水の瓶が目に入った。
パリ土産で麻子にあげた香水か――。
麻子は十分立派な大人の女だけれど、まだ、どこか垢抜けきらないところがあった。麻子をどこに出しても一目置かれる洗練された女性にしたいと、パリで買ったものだ。
でも、そんなものは建前の理由でしかない。
“俺のものだ“と誇示したい、みっともない独占欲の表れだ。
麻子が時折その香りを身に纏うたび、胸が疼いた。
麻子――。
幾つも夜を、麻子とこのベッドで過ごした。腕の中に入り込んでくる子供みたいでもあり、それでいてすべてを包み込んでくれるような女でもあった。
『課長から、たくさん励まされました。いろんなこと教えてもらって、いろんななものをもらって……私は、課長といられて幸せなことの方がずっとずっと多かった。それだけは伝えたかった』
さっき、オフィスで麻子が言っていた言葉。
謝る必要なんてないのに、本当に律儀な奴だ。
“こんな、健気な子はいないですからね!“
いつか、ふざけながら彼女が言っていた。
「……健気だよ。嫌になるくらい、健気で可愛い女だ」
思わず上げた腕で抱きしめたくても、もうここに彼女はいない。
“課長、好きです。すごく好き“
いつもはキリッとした声の麻子が、少しだけ甘くなる。麻子は、何度も何度も好きだと言った。
「麻子……」
戻ってきてくれ。
ずっとそばにいてほしい――。
そう言ってしまいたい。
けれど、すぐに思い浮かぶのは、先日の副社長室でのやり取り。副社長に言われた言葉が、この口を閉ざす。