冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
 
 * * *


 物心ついた時には、既に父親という存在は家にいなかった。

「テキトーに何か食べておくのよ。死なれるのも面倒だから、ちゃんと生きててよ」

記憶にある一番古い母親の言葉はそれだ。

 朝は寝ていて、昼頃起きてくる。仕事は夜からのはずなのに、起きたらすぐに着飾って外に出ていく。高級でもなく特別古びてもいない賃貸マンションに、母親と二人で暮らしていた。暮らしも、特別貧しくもなかったけれど裕福という訳でもなかった。

 母親は銀座の高級クラブでホステスとして働いていた。
 子供の頃はよくわからなかったが、今思い出してみると、かなりの美貌の持ち主だった。銀座の夜の街は実力の世界だ。そこで働き続けていたのだから、その辺の才覚は多少はあったのだろう。
 その代わり、彼女が子供にその労力を払うことはなかった。親に育ててもらったという記憶がまるでない。今で言うところのネグレクトだ。
 いつも、金だけがテーブルに置かれていた。その金を使い自分で食事を摂り必要なものを買う。小学校低学年にもなれば、身の周りのことはほとんど自分でしていた。せざるを得なかった。

 母親は常に男に媚び縋りながら生きていた。
 母親が付き合う男によって、子供である自分の生活の質も変わる。母親がろくでもない男に熱をあげている時は最悪だ。決して安くはないはずの給料のほとんどを男に貢ぐ。身体も男から離れられないのか、滅多に家にも帰らなくなる。そのせいで、途端に生活が苦しくなる。ろくでもない男だから、母親のストレスも溜まる。

「また、浮気したの? もうやめてって言ったのに!」
「うるせーな。水商売の女のくせに、浮気に目くじら立てるのかよ」
「私にはあなただけなのに!」
「夜の女に本気になるわけないだろう」

男と罵り合う、惨めな母親の姿を何度も見せつけられた。

「その目は何なのよ! 子供のくせに、そんな目で見ないで。あんたまで私を馬鹿にするつもり?」

男が出て行ったあと、そう言ってよく叩かれた。八つ当たりと行き場のない感情をぶつける対象になる。そんなことが何度も何度も繰り返されれば、心は次第に何も感じなくなるものだ。

男に縋ることでしか生きていけない母親。
姿すら表さないどこの誰だかわからない父親。

そんな二人が、どんな理由で作ったのかわからない子供。

男女関係というものが、たまらなく薄汚く無意味なものに思えた。

暖かい家族――それは自分にとってファンタジーでしかない。手に入れらるものでもないから欲しいとも思わない。

誰かに大切にされた記憶もないから、誰かを大切にしたいとも思わない。


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