冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「――ということで、このまま進めてください」
「はい」
午後のミーティングでは、各担当の進捗状況の報告と、今後の方針について九条からの指示が出された。
「それから、中野さん」
「は、はい」
メンバー全体に向けられていた九条の目が、麻子に移る。
「融資の件では私も同行するので、担当にアポを取っておいてください」
「分かりました」
そこには、ただの上司と部下としての関係しか存在しない。
「では、解散」
九条が会議室を出て行くと、待ってましたとばかりに秋元が皆の中心を陣取った。
「課長と副社長のお嬢様の結婚、いよいよ本決まりらしい」
「それ、私も聞きました」
秋元の言葉に同調する声があがる。
「河北さんの左手薬指、立派なダイヤが輝いてるって話。社内で出回ってる」
山田ですら同意した。もう、公然の事実となっているのがわかる。
「誰が見ても分かる意味ある場所の指輪だもん。もう、公にしてもいいって言う意思表示だよな」
もう、関係ない。何一つ関係ないことだ。
「披露宴とか、すごそうだよな。もう業務の一環みたいなもんだな」
「それにしても、さすが九条課長だわ」
プロジェクトメンバーの一人、坂口という女性が感嘆を漏らす。
「九条課長だからこそ、副社長の娘なんて人を射止めることができたのよ。あんたたちじゃ、相手にもされないって」
「まったく、女性はイケメンエリートに弱いよな」
「ただのその辺にいるイケメンじゃないの。あの冷たさが、逆にセクシーだと思わない? 中野さんはどう思う?」
突然話を振られて、身構えることも出来ていなかった。
「ど、どうでしょうか。私には、恐れ多くて……」
「確かに。簡単には相手にしてもらえなそうだもんね」
恐れ多い。
最初はそうだったはずだ。近づくとことすら想像出来なかった。
そう。最初の頃に戻ればいい。
「そうは言ったって、課長も同じ人間です。意外と普通の恋愛してるかもしれませんよ」
丸山がそんなことを言い出して、何故かちらりとこちらに視線を向けた。
「政略とかではなく、河北さんと普通に恋愛してるとしたら素敵よね」
"麻子"
九条が二人だけの時に呼ぶ声が不意に脳裏を過って、思わず固く目を閉じた。
「あれ……中野さん、腕時計、元に戻しちゃったの?」
「え……?」
坂口が、何の悪気もない表情で聞いて来た。
「は、はい」
咄嗟に腕時計をしている手首を握りしめる。
「もったいない。すごく素敵な時計だなって、目が行っちゃったのよ。あなたにとってもぴったりで、よけいに覚えてたの」
「壊れてちゃって……。修理に出す時間もなくて」
声が掠れる。
「今、忙しいもんね。落ち着いたら修理した方がいいよ」
「はい――」
「はいはい、雑談はこのくらいにしてください。会議室返したいんでー」
丸山が手を叩き出し、会話を断ち切った。その言葉に、皆が散らばって行く。
つい、大きく息を吐いた。
「中野さん。鍵は返しておくんで、ここはもう大丈夫ですよ」
「ありがとう。じゃあ、あとはよろしくね」
丸山の気遣いに助けられる。
でも、何かを察するような優しい声が、逆に落ち着かない。書類とノートパソコンを手にして会議室を出た。
周囲のどんな言葉にも揺さぶられない強い心がほしい。九条を目の前にしても何も感じない、九条を知る前の心が欲しい。
働いて働いて、がむしゃらに目の前のことだけに目を向けた。そうして、一週間が過ぎた頃だった。
「……中野さん」
廊下ですみれと鉢合わせてしまった。法務部にはなるべく行かないようにしていた。それでも、会う時は会ってしまうのだ。
「お疲れ様です」
会釈して、その横を通り過ぎようとした。
「――私のお願い。きいてくださったみたいで、ありがとうございます」
その時、すれ違いざまにすみれが声を発する。