冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
中野麻子の朝は早い。7時30分には出勤する。
麻子が勤務する丸菱商事は、東京丸の内に本社を構える国内最大手の総合商社だ。
その中でも一番の稼ぎ頭である花形部署――事業投資部のエネルギー部門は、始業と同時に忙しくなる。あちこちで即席会議が行われ、電話はひっきりなしにかかってくる。とにかく人の声で、このだだっ広いフロアは埋め尽くされる。
この始業前の時間しか、落ち着いて自分の仕事を進められない。
入社5年目の27歳なんていうのは、若手という時期は過ぎ去ったけれど一人前かと言われたらそれも疑問。なのに、後輩指導まで任せられ始めるから、常に仕事に余裕がない。
社内で一番金も人も集まる部門とあって、一つの課でもかなりの大所帯となっている。仕事に追われている割には、自分が大きな仕事をしている実感はまるでない。平社員の自分は単なる駒に過ぎないと、日に日に実感している。
家から持参した水筒をデスクに置き、パソコンを立ち上げた。
一日のスケジュールを確認してげんなりしそうな自分を叱咤して、頭の中で自分のすべきことの段取りを組む。次にメールの確認だ。受信トレイには大量のメールが並んでいた。事業のパートナー会社は海外が多い。受信時刻も様々。言語は基本は英語だけれど、時々多言語が混ざる時もある。
今のうちにある程度把握して、すぐに返信できるものとそうでないものを振り分けて――。
黙々と仕事を進めながら水筒に入れて来た黒胡麻茶を口にした時、執務室の入り口の方から音がした。
「中野、おはよう」
「おはようございます」
続々と同僚たちが出勤してきた。
もう、45分も経ったの――?
時間の進み具合に恐ろしくなる。
「それにしても、ホント、朝がつらい……」
麻子の正面の席に座る先輩社員が、出勤して来るなりぼやいていた。
「中野は元から朝が早い方だったからいいよな。俺なんてもう、既に死にそう……」
入社7年目の田所篤史、いわゆる体育会系のノリで仕事を進めるタイプ。『酒には強いが朝は弱い』と何故かドヤ顔で宣言している。体育会系なら朝も強いんじゃないのか――と、心の中でツッコんだのは内緒だ。
「私は要領良くないんで、朝早く来ないと仕事が回らないんですよ」
「いや、その習慣がここで役に立ってんじゃん。あーあ。3月までは良かったよな……。4月にあの人が来てからは地獄――」
「田所さん! そんなこと言わずに今日も頑張りましょ」
そんなことをこんな所で大きな声で言わせないために田所の声に被せた瞬間、出勤時間帯でざわついていたフロアにピリッとした空気が走る。一瞬、ラジオのスイッチを切ったかのように静寂が訪れた。それは、九条拓也―― 課長が出勤して来たことを知らせる。