冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「おはようございます」
静寂を切り裂くように誰かが第一声を放つと、「おはようございます、課長」と次々に声が発せられる。
「――おはようございます」
冷気をまとった低い声が、5月の爽やかな空気を最低でも5℃は下げただろう。
(やべー、俺の声、課長に聞こえたかな)
田所が焦ったように麻子に顔を近付けてきて、声を顰めた。
(どうでしょうか、ギリギリセーフかもしれませ――)
「――田所さん、ちょっと」
そんなやりとりをぶった斬るように、九条の声が飛んで来た。
「は、はいっ!」
そのガタイの良い肩を目に見えるように上げ、立ち上がる。
「こちらに」
抑揚のない声はただただ低く温度がない。
「ただいま!」
田所がすっ飛んで行くと、課長の席の前で直立不動の姿勢を取った。
「昨日提出してもらった資料だが、必要項目が一つ抜けていた。君に依頼した時、私の話を聞いていなかったのか?」
「え? いや、そんなはずは……」
激昂するわけでも語気を荒げるわけでもない。ただただその視線と声が冷たすぎて相手に威圧感を与える。課長はそういうタイプの人間だ。田所があたふたと資料を高速で捲る。
大柄にも関わらず、その姿が小さく見える。
「今すぐ作り直せ。午後イチの会議資料だとわかっているな? 11時までにもう一度提出するように」
田所の手元にあった付箋だらけの資料をもう一度課長が取り上げると、それを田所に突き出した。
「――君の地獄を作り出しているのは、誰でもない注意力散漫な君自身じゃないのか?」
田所さんの言葉、聞こえてたの――?
「は、はいっ。申し訳ございません!」
課長の放った言葉に、田所以外の社員にまで恐怖が突き抜けていくのがわかる。逃げるように席に戻って来た田所の表情は、見てすぐ分かるほどに顔面蒼白だった。