冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


――お願い。

それは、すみれが会いに来たことを九条に告げなかったことを言っているのか。

「待って」

そのまま立ち去ろうとしたら、引き留められた。
その声に立ち止まり振り返る。すみれは、何故か、穏やかに微笑み麻子を見ていた。

「先日は一方的に言いたいことばかりお話してしまって、本当にごめんなさい。失礼でしたよね」

あれだけ感情的に責めておいて、どうしたというのか。

「中野さんに会えなくなる前に、一言お詫びしておきたいと思っていたんです」
「……え?」

会えなくなる?
それはどういう意味だろう。

訳が分からないでいると、すみれが一歩ずつこちらへと近づいて来る。

「もしかしたら、中野さんのおっしゃっていたことは嘘ではなかったのかしら。空港でお二人が一緒にいたのも、特別な関係だったからというわけではなかったのかもしれませんね」

彼女の中の疑いが晴れる"何か"があったのか。
それとも、何か含みをもたせているのか。

まるでわからない。分からないのに聞くこともできなくて、歯がゆくなる。

「くれぐれもお身体には気をつけて、丸菱のためにお仕事頑張ってくださいね。副社長の親族として私からもお願い致します。遠くからではありますが、ご成功をお祈りしております」

美しい目鼻立ちの表情をふんわりと緩め、ゆっくりと会釈をする。どこか勝ち誇った顔のように見えるのは、今、自分の心が荒んでいるからなのか。

それより何より、何かが引っ掛かるその発言だ。
どうして、改まってそんなことを言い出したのか。

すみれの甘い香水の残り香の中で、言いようもなく心
がザワザワとした。


「――中野さん、ちょっと」

すみれと別れて自分の課に戻って来たと同時に九条に呼ばれる。

「本部長がお呼びだ。ついて来なさい」
「はい」

九条の麻子を見下ろす鋭い視線が、わずかに揺れた。

長身の背中を見つめながら後を歩く。

営業本部長が私を直々に呼ぶなんて何事だろうか?

まったく見当もつかない。

 九条の背中が振り返ることはなかった。本部長室までの間、九条は一切口を開かなかった。それに違和感を覚える。別れた後の九条は、完全に麻子を一部下として接していた。そっくりそのまま、以前に戻ったように。なのに、今、目の前にいる九条からは張り詰めたものを感じる。

「――本部長、中野をお連れしました」
「どうぞ、入って」

ノックの後に九条が声を掛けるとすぐに応答があった。

「失礼致します」

九条の後に続いて、営業本部長室に足を踏み入れる。

「忙しいところ悪いね。さあ、座って」

にこやかに、ソファに座るよう勧めて来た。
九条の隣に少し間を空けて、浅く腰掛ける。正面には本部長が座った。

「中野さん、プロジェクトでもよく働いてくれていると九条君から聞いているよ」
「課長からご指導いただきながら、精一杯、取り組ませていただいております」

一体、何を言われるために呼ばれたのか――。

「それでだ。君をここに呼んだのは、インドネシア赴任の件についてなんだ」

え――?

営業本部長の言葉が、まだ完全には理解できない。

「事業投資のプロジェクトでは、現地で指揮をとる人間が必要になることはわかっているな?」
「は、い」

もちろん知っている。それが、選ばれし者であって、商社マンが出世するための必要条件だということ。
だからこそ、自分には関係のないものだと思っていた。

「本社との調整、現地の協力企業とのパイプ作り、プロジェクト進行の実質的リーダーとしての職務、管理。その他、多岐に渡る業務を全て担うことになる重責だ。インドネシアへには君に行ってほしいと考えている」

まさか、だ。

「社を挙げてのビッグプロジェクトだ。幾多ある海外赴任の中でも、とりわけ社内での評価は最高レベルのものになる。向こうでしっかり働けば君のキャリアのプラスになる。どうだ? 行ってくれるか?」
「どうして、私、なのでしょうか……」

考えもしていなかったことを告げられて、動揺がおさまらない。自分の感情を掴むこともできない。

本当なら名誉なことだし、商社で働いている人間なら喜びで一杯になる辞令だ。

なのに、どうして動揺しているのか。

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