冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


「もちろん、君の働きぶりから判断した。九条君からの太鼓判もある。我々としては安心して君に辞令を出せると思っているよ」

課長が――?

ここがどこだかも忘れて、九条を見てしまいそうになるのを咄嗟に堪えた。心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。

どういうこと?

赴任者は簡単に決まるものじゃない。決定するまでには時間をかけているはずだ。ということは、課長は、そのつもりで私といたのか。

知りながら私といた。

それどころか、私と付き合いながらインドネシアへ赴任させようとしていた――。

いろんなことが脈絡なく頭を駆け巡るばかりでどんな感情になるのが正解なのかわからない。

「中野さん」
「は、はい」
「プロジェクト成功のために力を発揮してくれ」

ここで断る選択肢なんてあるわけがない。こんなチャンス二度と巡ってこない。駐在は憧れだった。それも、とりわけ大きな責任のある駐在だ。誰もが得られるポストじゃない。この先、自分にとってプラスにしかならない。

これだけのプラス面を並べることができるのに、どうして今、泣きそうになっているのか。

「私を選んでくださりありがとうございます。ご期待に添えるよう精一杯、勤めさせていただきます」

言葉とは裏腹な表情をこれ以上見せることはできなくて、深々と頭を下げた。

「そうか。それはよかった。もし、君に結婚の予定のようなプライベートな事情でもあって断られたらと、心配したんだ。よかった、よかった。三年、しっかり働いてきてくれ」
「中野なら、間違いなくしっかりと役割を果たしてくれると信じています。直属の上司として何の不安もありません」

隣に座る九条の言葉が、どこか遠くで聞こえる。

「誰よりも人を見る目に厳しい九条君が言うんだ。不安なんてないさ。近々、正式な辞令が出る。それまでは内密に頼むよ。予定としては3ヶ月後くらいに現地に行ってもらうことになるだろう。そのつもりで準備し始めてくれ」
「承知致しました」

それからは、自分がどんな風にその場をやり過ごして営業本部長室を出たのかわからない。

ただ頭にあるのは、三ヶ月後にここを離れるということ。本当に九条から離れるということ。恋人としてどころか、部下としてもそばにはいられないということ。

そして。それを後押ししたのが九条だということ。

「――中野さん」

呆然と廊下を歩く。不意に耳に届いた九条の声に、怯えるようにして顔を上げた。

「インドネシア赴任、おめでとう」

少しの乱れもない髪。寸分の隙もないスーツ。口元だけしか動かない鉄壁の表情。目の前にいるのは、課長としての九条だった。

「ありがとうございま――」

ここでするべき部下としての正しい言動は、お礼を言って、精一杯頑張るという姿勢を見せること。直属の上司に評価してもらってこんな機会をもらったのだ。

頭ではわかっているし、ここが職場だということも、もう二人の間に私的関係はないということも理解しているのに。

心がいうことをきかない。
唇が震え感情が昂るのを懸命に抑える。

「これで、将来、丸菱(うち)で誰より稼げる人間になれるぞ」

なのに、その言葉で留めていた感情が決壊してしまった。

「課長は、最初からそのつもりでいたんですよね。私が何も知らずにあなたのそばで笑っている裏で、最初から……」

ダメだ。こんなところで話すことじゃない。
なのに、止められない。

「最初から、近い将来いなくなる人間として私を見ていた。私は何も知らずに……」

すみれとは何の関係もないと言った九条の言葉は、嘘だったのでは?

私が赴任した後に、河北さんと結婚する予定でいた。インドネシアに行ってしまえば、もう関係ないから――。

だから、さっき、すみれはあんなことを言って来た。

私は、限られた時間、結婚前に遊ぶだけの女だった……。

次から次へと雪崩のように負の想像が流れ込んでくる。

「人事に関することを口外しないのは当然のことだ」
「わかってます」

だめだ。どこで誰が聞いているかわからない。こんなところで九条を困らせてはならない。

「す、すみません、変なことを言って。私、失礼します」

これ以上言葉を吐けば、もっともっと困らせる。
動揺と混乱で心の中はぐちゃぐちゃだ。みっともない姿を見せるだけで少しも取り繕うことができない。

「待て」
「すみません。今だけは時間をください。申し訳ございません」

頭を下げて、逃げるように立ち去った。
それが今できる精一杯だった。

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