冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
田所を前にすると、どう接したら良いのか分からなくなった。
「中野、電話鳴ってんぞ」
「あ、はい。今、取ります」
「ぼーっとして、どうした?」
「い、いえ、すみません」
慌てて受話器を取る。
これまで懸命に築いて来たものがぐらついていくみたいで、急に怖くなる。
取引先からの電話を終え受話器を置くと、田所が再び麻子に声を掛けた。
「何かあったの? 中野が元気ないの、珍しいな」
これまでなら、同じ課の同僚として軽口の一つでも叩けた。でも、今までのように振る舞えない。
「何でもないですよ。私、ちょっと資料室行って来ます」
すっと立ち上がり、席を立った。
急によそよそしくなるとか、大人げないよな――。
資料室の書棚に手をついて俯く。
相手に気付かれるような態度を取れば、不信感を抱かせる。一緒に仕事する人間とぎくしゃくしてしまっては、仕事もやりずらくなるだけだ。
"うちの、なんでも麻子チャン"
耳にこびりついて離れないワードを、頭から無理やり振り払う。
私は私で、やるべきことをやればいい――。
パンパンと頬を叩き、気を取り直した。
「――中野さん、ちょっと」
そうして課に戻ってすぐだった。
「は、はい」
九条に呼ばれ、課長席に向かう。
「何でしょうか――」
「今、法務から電話があったが、A社との契約書の確認はどうした?」
あ――。
「も、申し訳ございません! これからすぐに――」
「もう結構だ」
冷淡な声が、何の弁解も許さない。
「重要な案件を忘れるほど他のことに気を取られている人間には任せられない。もう戻れ」
「い、いえ、私が――」
「戻れと言ったのが聞こえないのか?」
鋭く突き刺さすような視線が麻子を見上げた。
失望と呆れ。
九条の目にあるのはただそれだけだ。
「も、申し訳ございませんでした」
呆然と頭を下げ、その場を離れる。
一体、何をやっているのか――。
あんな話を聞いたくらいで、こんな大きなミスを犯すなんて。社会人失格だ。自分が恥ずかしくて情けなくて許せない。
課長に、またも失望させてしまった――。
自分の席に戻ると丸山に哀れむような目で見られ、田所からは「しっかりしろよ」と言われた。
落ち込んでいる暇もない。すぐに法務に謝罪の連絡を入れる。
ミスした分取り戻さなければと、一心不乱に山積みの業務を処理した。それでも、心の中にしぶとく自分を責める気持ちが蔓延る。