冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「――課長、今、お時間よろしいでしょうか」
メールの返信と丸山から頼まれたデータ処理がひと段落ついた頃、その丸山の声が耳に届いた。
「今後の天然ガスの取引傾向から、自分なりに検討した事業計画を作ってみたのですが、見ていただきたいんです」
え――?
思わず、ノートパソコンのディスプレイから顔を上げる。
「……丸山さんが?」
「はい。有益になることはないかと、少しでも貢献したくて」
いつのまに、そんなことをしていたのだろうか。その時間はどこに?
だって、W社のトラブルで時間を取られているって。だから、私がデータ集計を引き受けた――。
そこまで考えたところで、すべてを理解した。
「課長に、ぜひ見ていただきたいんです!」
いつもとは全然違う、意気揚々とした丸山の声がフロア内に響く。
誰がやっても同じ雑務のような仕事ではなく、よりやりがいのある核となる仕事をしたい。人より評価されたい。――。
若手なら誰しもが必ず一度は思うことだ。
それに、近々ビッグプロジェクトが立ち上がる噂もある。そのメンバーに選ばれるためにアピールしたい。そういうことか。
でも、だからと言って、嘘をつくの――?
「……W社のトラブルはどうなったの?」
席に戻って来た丸山に聞いたら、笑顔でこう答えた。
「ああ……、思っていたより簡単に収束して。本当に助かりました」
「だったら、一声掛けてほしい。データの集計、手伝って欲しかった」
抑えたつもりでも、少し責めるような言い方になる。
「だって。中野さん、なんでも笑顔でできちゃう、スーパーマンじゃないですか。俺がやるより早いですよね?」
その笑顔に、胃の奥がつかえた。
――疲れた。
夜10時を過ぎた誰もいないオフィスで、閉じたノートパソコンに突っ伏す。
何も考えなくて済むように、ひたすらに仕事して。でも、さすがにこの日はこたえた。
鉛のように重い上半身を起こし、ジャケットを手に取る。廊下にだけさす照明のもと、足を引き摺るようにして歩いた。
エントランスから歩道に出た時、おもむろにスマホを手に取る。
(……もしもし)
「あ、私」
(ああ)
久しぶりに聞く祐介の声。だからだろうか、全然知らない人の声に聞こえた。
「これから、会えないかな。ずっと会ってないし、今日はなんとなく話がしたいなって思って。ほんの少しの時間でもいいの。だから――」
少しでいい。縋りたくなってしまった。断られたくなくて、捲し立てるように言葉を繋ぐ。
(……ごめん。麻子にも言ってある通り、仕事立て込んでてさ。明日の朝も早いんだ)
でも、それは何の意味もなさなかった。
「そ……そっか。そうだよね。分かってたのに、急にごめんね。じゃあ、仕事、頑張ってね」
(ああ)
「おやすみ」
(おやすみ)
その電話は、何の名残惜しさも感じられずに、すぐに切られた。
こんな時間に無理を言うなんてどうかしてる。
スマホをすぐにバッグにしまう。
こういう時、『今日、落ち込んでるから一緒にいたい』と泣いて甘えられたら、何か違っていたのだろうか。
翌日の土曜日、朝早くアパートを出て、地元へと向かった。母親の13回忌が行われる。