冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「――壮行会は、君の希望で開催しないと聞いたが?」
ドアを開け、現れた九条の第一声はそれだった。
「え……っ、あ、そう、そうです。そうなんですけど」
今まで散々罵倒していたとは思えないくらいに、挙動不審になる。それくらいに、もう来てもらえないものだと思っていた。
「まあいい。それより、中に入れてくれないか?」
相変わらずの無表情と淡々とした声だ。
「すみません、どうぞ」
九条を部屋に招き入れ、スラリとしたスタイルのいい後ろ姿を眺める。
この背中を、これまで何度も見てきた。
ピンとした広い背中。九条のスーツ姿は、日本の全ビジネスマンのトップオブトップのカッコ良さだと密かに思っている。
「……缶ビール2缶とは。また、シケた走行会だな」
そんなことを口にして、九条はソファに腰掛けた。その姿を見つめていると、真っ直ぐこちらに向けられた九条の視線とぶつかる。
「そんなところに立ってないで、座ったらどうだ。壮行会、するんだろ?」
シルバーフレームのレンズの向こうにある切長の知的な瞳。それはまだ、会社で見せているものそのものだ。
この日、この場所をセッティングした自分の決意を胸に馳せ、ソファーに脚を組んで座る九条の隣に座った。
「“可愛い部下のめでたい駐在祝い“だからな。いい酒を持ってきた」
「これ、ドンペリじゃないですか!」
細長い紙袋から九条が深緑のボトルを取り出す。
ドン ペリニヨン――通称ドンペリ。最高級シャンパンだ。
「“可愛い部下“のためだ。これくらいしないとな」
「……もう、いいでしょう。何回言うんですか」
「何回でも言おう。可愛い部下だからな」
そうやって、意地悪に口角を上げる。二人でいる時に時折見せてくれた、麻子をからかって楽しむ時の九条の表情だ。
「グラスを持ってこよう」
「いえ、私が――」
「君は“主賓“だ。座っていなさい」
「また、そうやって……」
立ち上がり、部屋に置かれていたワイングラスを二つ持ってきてくれた。
「中野さんの、インドネシア赴任を祝って」
九条が注いだシャンパンの入ったグラスを合わせる。カチリとガラスがぶつかる音が響いた。グラスをそのまま口に運ぶ。
綺麗な泡が浮かぶシャンパンを一息に飲み干した。上品な甘みと苦味が口の中にいっぱいに広がって、それが喉を落ちていく時にヒリヒリとする。
「美味しいです。こんな美味しいお酒、飲ませてくれてありがとうございます」
プハーッと勢いよく息を吐き、隣にいる九条に頭を下げた。
「それにしても、どうして灯りをつけないんだ。暗いだろ?」
「薄暗いだけで、顔も姿もちゃんとわかりますから。この方がいいんです」
「……どうして?」
九条がこちらに身体を向けて、肘をソファの背もたれに置き麻子を見つめる。
「その方が、課長の目が優しくなるから」
グラスを握りしめながら、九条の目をまっすぐに見返した。
「暗い場所だと本当の優しい課長が現れてくれる気がして。だから、こんな場所にしました」
そう言うと、九条は麻子から視線を逸らし、ボトルを手にして自分のグラスに再び注いでいる。
「私も。もう一杯ください」
麻子が手にしていたグラスにもシャンパンを注ぎながら、九条が口を開いた。
「私は、元から優しくなどないが」
「確かに、課長を覆っているものには優しさ成分は含まれていませんが、課長の中の奥の奥に、他人が触れられない優しさが含まれていますよ」
注がれたシャンパンを、また、一息に飲む。
「一人で、一本空けるつもりか?」
「だって、美味しいから。私のために買って来てくれたお酒でしょう? だめですか?」
グラスを空にしてそう聞くと、九条は諦めたようにため息を吐いた。