冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜

「いいよ。君を祝うための酒だからな。上司からのはなむけだ」

長い指がシャツの一番上のボタンをあけネクタイを緩める姿に、いやでも胸がときめく。

本当にどうしようもない。

未来がない人だとわかっているのに、未だにこんなにも生々しく焦がれてしまう。

「……課長」
「ん? なんだ」

九条自身もグラスを口に運んでいた。

「壮行会ですから、課長として、はなむけの言葉を言ってください。ほら、本当の壮行会でよく上司が部下に向ける言葉ですよ。ここで、言って欲しいです」
「ここで? 二人しかいないのに?」
「はい! リップサービス多めで。大体、こういう場での言葉って褒め倒すじゃないですか。そういうの、お願いします」
「……」
「いつも冷酷な上司の滅多にない褒め言葉は、グッと来るんですよ。ほら、早く!」

酒の勢いを言い訳に、九条に詰め寄る。 

綺麗な形の額に指を添え、眉間に皺を寄せて苦渋の表情を見せて。何かを吹っ切るように麻子に視線を移した。

「4月から彼女のことを見てきましたが、これまで私の下についていた部下の中でも、最も優秀な人材です」
「いいです、いいです。そういうの、お願いします」

九条がソファの背もたれに手を置き、身体をこちらに向け話し出す。

「仕事に対しする責任感はもとより、こちらが指示した意図を的確に読み取り求めていた以上の成果物を出してくる。仕事そのものの能力だけではない。彼女は周囲への配慮も怠らない。誰に対しても、誠意をもって対応する。それが上司であろうと同僚であろうと後輩であろうと」

まさか、そこまでサービスをしてくれるとは思わなかった。

そうしてくれと言い出したのは自分なのに、早々に居心地悪くなって、思わず九条から視線を逸らす。

「あ、あの、そこまでリップサービスされちゃうと、照れるっていうか、嘘っぽいというか、なんだかムズムズして――」
「嘘じゃない。全部、本心だ。最後まで聞けよ」
「……え?」

つい俯いてしまった顔を、九条の手のひらで上を向けさせられた。

「いつも不器用なほどに一生懸命で、どんなに辛くとも強く強く、前を向いている。決して人を蹴落とさない。そんなことをせずに、自分の努力と実力で評価を得られる、稀有な人材だ。最高の部下で、私の誇りだ」

じっと突き刺さるように向けられた九条の眼差しは、もう社内で見る上司としてのものではなかった。

「どこに出しても恥ずかしくない。それは上司である私が保証する。誰がなんと言おうと、赴任するに相応しい。誰にも文句なんて言わせない」

自分の目に何か膜ができて、九条の顔が歪んでいく。

「課長……それにしたって、褒めすぎ……」
「だから、全部本心だと言ってるだろうが」

優しくなった声と同時に、頬にあった九条の手のひらが頭をくしゃっとする。

「向こうでしっかり働いて来い。どんな噂も、くだらない妬みも、全部仕事で黙らせろ。そうすれば、誰も何も言えなくなる」

そう言った九条の眼差しが、泣けるほどに優しく見えて。部下として聞いていたくせに、たまらなくなって九条に腕を投げ出していた。


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