冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「……ありがとうございます。私が周囲を納得させられる機会を守ってくれて、ありがとう」
場合によっては、インドネシア赴任も白紙になっていたかもしれない。下手したら、立場の弱い女子社員なんて僻地に飛ばされることだってある。
「君が赴任するのは当然のことだと言ってるだろ。君の持ち前の根性でやり切れ」
九条の首に、しがみつくみたいに抱きつく。そんな麻子の背中を九条も抱きしめ返した。
「任せてください。バリバリ働いて来ます。課長にしごかれたんだから、どデカい成果を引っさげて帰って来てやりますよ」
「ああ。期待して待ってる」
背中にある手のひらがたまらなく優しい。ゆっくり九条の肩から顔を離し、正面からその目を見た。
薄暗い部屋の中。至近距離から見るその瞳だけを見つめる。
「ここからは、課長としてじゃなくて、九条拓也として答えてください」
本当に好きで好きでたまらなかった。
恐れて、尊敬して、そして一人の男として恋焦がれた人。
少しの乱れもない黒髪、シルバーフレームのメガネの奥の目は冷酷さを醸し出す。最初は近寄り難い人だった。
「私、いい女になりましたか?」
「……ああ」
九条が与えてくれたものが全部、自分の中に蓄えられている。それが全部今の自分を作っている。
「君はいい女だ」
躊躇いなくそう答えてくれた。
それでまた涙腺が緩んだ。でも、この人の目から絶対に目を逸らしたりしない。本当の心が知りたいから。
「もう一つ。課長は、私のこと好きでしたか? 今日は、言葉で教えてください」
自分ばかりが口にして、一度ももらったことのない言葉。
言葉なんて、陳腐なもので何の意味もないものなのかもしれない。それを欲しいと強請るのは、大人の女には程遠い。
でも、最後に九条の言葉が聞きたかった。
もう夜も更けたから、本当の課長を見せて――。
九条の長く骨ばった指が、麻子の頬を挟み込んで。
心の奥底から漏れ出るような声で言った。
「俺は、」
初めて聞いた、“私“じゃなくて“俺“という一人称。一度瞼を閉じて微かに息を吐き、ゆっくりと開いた眼差しが麻子を射抜くように見つめた。
「……君が好きだ」
唇がそう動いたのと同時に、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「その言葉の意味も感情も初めて知った。君が教えてくれた」
九条が愛おしそうに、そしてどこか切なげに麻子の頬に指を這わせた。
「麻子が好きだ」
ネオンが減ったせいでさらに暗闇に埋もれていく部屋の中で、目の前の瞳が溶け出す。
「最後に……。あなたを誘惑したい」
九条の肩に手を置き、長い脚にまたがる。
「本当に私がいい女になったのなら、課長を誘惑できるはずですよね?」
麻子の方が九条を見下ろす体制になる。
そして、そのまま九条をソファに押し倒した。
「……麻子にこんなことをされて。今夜が最後だとわかっていても、君の誘惑を拒めるような誠実な男じゃない」
組み敷かれた九条が、手を伸ばし麻子の頬に触れる。
「傷が深くなろうが、余計に辛くなろうが、知ったことか」
その瞳に激情が走った。
最後の一夜だけ、あなたをください。
今すぐ抱き合いたい。
この人の熱を感じたい。
どうしようもなく、この人がほしい。