冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
役員をはじめ幹部たちへの挨拶を終えて、社内の廊下を歩いている時だった。
「――中野さん」
背後から声を掛けられその声に振り返ると、優しげな笑みを浮かべた藤原がこちらへと歩いて来るのが見えた。
「藤原さん、お久しぶりです」
「インドネシアでは、大暴れしたようだね。噂はいつも耳に入って来ていたよ」
「大暴れなんてしてません……と言いたいところですが、そうだったかもしれません」
そう言って苦笑した。自分にとってのガムシャラは、周囲から見たら大暴れだったかもしれない。それくらいでないと、あんなに大きな仕事を若い自分が動かすことは出来なかった。
「最高の褒め言葉のつもりだよ。本当によくやった。君が新入社員の時の直属の先輩としては、誇らしい気分だ」
藤原がまるで兄か父親にでもなったかのように、目を細めて麻子を見つめる。
「いやー、それにしても中野さんが課長かぁ、感慨深いな。俺も年取るわけだ」
今度はどこかしんみりしたように言葉を吐いた。
「……でも」
その目を意味深なものにする。
「九条が一番喜んでるかもな。言葉にするような奴じゃないけど、顔を見ればわかる」
「九条さん……お元気ですか?」
藤原は自分と九条との関係を知っているのだろうか。
九条から聞いたことはないし、わからない。少し緊張しながら藤原に尋ねた。
「ああ、相変わらず鬼と言われてるよ。今は、鬼課長じゃなくて鬼部長だけどな」
「……目に浮かびます。でも、なんとなく、九条さんには鬼でいてもらいたい気がします」
それ以上藤原の視線を受けている自信がなくなって、思わず視線を窓の外へと移した。
「ぜひ、九条に会いに行ってあげてくれ――と言いたいところだが、今ちょうど、海外出張に出ていたな。まあ、いずれ会う機会はいくらでもあるだろう。顔を見せてあげてくれ」
「はい。挨拶に伺おうと思ってます」
赴任前に九条と噂になってしまった事実はある。ここで何かを悟られるような表情をするわけには行かない。もう30を過ぎた大人だ。以前よりずっと表情を取り繕えるようになった。
「今度、君の帰国慰労会があるだろうから。その時、俺も顔を出させてもらうよ」
「え?」
「丸山が、もう既に企画してたぞ?」
丸山君が……。
丸山の顔がふっと浮かんだ。
「じゃあ、また今度な」
そう言って爽やかな笑みを残して立ち去った藤原を見送った。
九条が出張中だという事実にどこかほっとしている自分に呆れる。
会うのが怖い。
会った瞬間、自分がどんな感情を持ちどんな言葉を吐いて、どんな行動をするのか。
自分でもわからないことが一番怖いのかもしれない。
取り繕うことができる――つい先ほどそう思った自分に心の中で苦笑した。