冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
丸山が企画した帰国を祝う会の日がやってきた。
仕事を何とか終えて、開始時間に間に合うことができた。
会場に到着したとき、赴任直前の出来事を思い出し、言いようもない緊張が押し寄せた。
プロジェクトメンバーや同僚たちから向けられた軽蔑の眼差しがフラッシュバックのように浮かぶ。
でも、あれから三年が経っている――。
そう自分に言い聞かせ、ひとつ深呼吸をして会場となっていたダイニングバーに足を踏み入れた。
「中野さん!」
すぐに声を掛けられた。丸山の満面の笑みが見える。
「主役の登場だ。中野、お疲れー」
丸山の声を引き金に、既に集まっていたメンバーが一斉にこちらを見て、拍手した。その中には、美琴をはじめ、三年前一緒だったプロジェクトメンバーが数多くいる。
当時、突然会社に現れた結愛のせいで、九条との関係が噂された時。一番に苦言を呈してきたプロジェクトメンバーの坂口が、笑顔で麻子を迎え入れた。
「中野さん、本当にお疲れ様。プロジェクトを成功させてくれて、本当にありがとう。私も必死に取り組んだ仕事だから。こうして、大きく花開かせてくれたのはあなただよ」
「ただ、無我夢中で働いていただけです。皆さんのプロジェクトに対する思いが、苦しい時に私を引っ張り上げてくれました」
ただただ、嬉しい。心の中に湧き上がったのはその感情だった。
「悔しいけど、三年間よくやったよ。ホント」
次にそう言ってきたのは、同じくメンバーだった秋元。赴任直前まで、九条と麻子に嫌味を言っていた男だ。
「……ありがとうございます」
それ以外にも、ここにいる皆が笑顔で自分を迎えてくれている。課長昇進を聞かされた時よりも、今の方が自分がしてきた仕事が認められた気持ちになる。冷たい目で送り出されたあの頃の自分を、今なら励ませる気がする。
「さあさあ、まずは挨拶をお願いします!」
取り囲まれ始めた麻子を丸山が引っ張り出した。
「じゃあ、少しだけ」
そこに集まった20数人を前に、短い挨拶をした。
「こうして、私のために集まっていただいて、本当にありがとうございます。三年、無事に任期を終えることができてホッとしていますし、支えてくださった方々に感謝しています――」
三年前の苦しかった自分。そして今。確実に時は流れたのだと改めて実感する。
「――麻子、ほんとよかった」
ひとしきり挨拶が終わって、出席してくれていた美琴とグラスを合わせた。
「ますます、いい女になっちゃって」
「美琴こそ。幸せオーラが溢れかえってるよ」
「うーん。まあね」
美琴は来月結婚する。美琴からはキラキラとした光が発光しているように見える。愛している人と人生を共にする。そういう時、人はこんな表情をするのだ。
「美琴もおめでとう」
「ありがとう」
もう一度、カチンとグラスを鳴らした後、美琴が少し声を顰めた。
「……今日、残念だったね。丸山君は声かけたらしいけど、九条さん海外出張中らしい」
「ううん。出張じゃなくても、来てくれたとは思えないし。いいの」
苦笑しつつそう答えると、美琴の目が不意に近づいてくる。
「でも、麻子から会いに行くんでしょう?」
その目に真っ直ぐに応えた。どうしたって、美琴には嘘なんてつけないのだ。
「うん。ケジメとして、ちゃんと会って挨拶はしたいって思ってる」
どんなに怖くても、最後にたどり着く結論はそれだった。
それがこの三年間の締めくくりだと思うから。
レストルームから戻って来る途中の通路で藤原さんと鉢合った。
「藤原さん。今日は来てくださってありがとうございま――」
「そんなことより。今さっき、あいつの姿を見かけたんだ」
「あいつ?」
どうしたのだろう。藤原がやけに焦っている。
「九条だ。確かに見たのに、見失った。まだ近くにいると思う」
「え……? で、でも、海外出張中だって――」
「俺もそう聞いていた。でも、確かに九条だった。だから、早く追いかけて」
「でも、」
藤原がどういうつもりでそんなことを言っているのか。ここで頷いていいのか。状況がわからなくて口篭っていると、藤原が畳み掛けるように言った。
「今なら君が抜けても誰も気にかけない。俺がなんとでも言っておけるから」
その必死な眼差しに気圧される。
「あいつの友人としてのお願いだ。ほら、行って」
きっと、この人は私たちの三年前の関係を知っている――。
そう悟った。
「わかりました」
藤原の横を駆け抜ける。