冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


「課長!」

店から歩道に出て、左右を素早く見る。すぐに、行き交う人の中にその背中を見つけた。思わず、以前の呼び方で呼んでしまった。

麻子の声に、長身の後ろ姿がぴたりと足を止めた。

背中を見ただけで、迷うことなくわかってしまう自分に泣きたくなる。

足を止めたのに振り返ろうとしない九条に、この足は駆け出していた。

「――また、先に帰っちゃうんですね」

九条に追いつくと、その背中に向かってそんなことを言っていた。三年ぶりに交わす言葉ではない気がするが、必死になって出て来た言葉がこれだった。

「八年前、初めて会った時と同じ」

ゆっくりとこちらへと振り返る。三年ぶりに見た九条の顔に、自分の心にたくさん覆い被さっていた言い訳が一変に吹き飛ぶ。

「気付かれてたのか」

その低く艶のある声も、シルバーフレームの奥のひんやりとした眼差しも、何もかも。三年という時間をあっという間に巻き戻す。向き合う九条に、心の全てを奪われた。

「気付かれないと思っていたのにな」
「気付かれないように、来たんですか……?」

かろうじて自分を保っている。おかしな行動を取らないように、手のひらをぎゅっと握りしめた。

「君がみんなの前で挨拶しているとき、こっそり見ていた。皆、君の方を見ているからバレないと思っていたのに」

鋭さがほんのわずかに緩んだその目――二人でいる時にだけ見ることのできる目だった。あの頃、その目を見るだけで幸せだった。

「――三年間、ご苦労様。よく頑張った」

九条の言葉に、目頭が熱くなる。

「課長に言われたこと、ちゃんとできましたか?」

――とにかく仕事ができるようになれ。

八年前、初めて九条と話したあの時、新入社員の自分に九条はそう言った。

「君が、プロジェクトメンバーに囲まれている姿を見た。どんな雑音も仕事で黙らせろと言ったが、君はそれを成し遂げたな」
「課長……」

赴任直前、九条とのことが噂になって、インドネシア赴任の辞令は公私混同だと非難された。その時、九条が麻子に告げた言葉。

「もう誰も、バカげたことは言わない。君の実力で得たものだと疑う者もいない。自分の力でそうしたんだ。私は、君のことを誇りに思う」
「……そんなに、褒めてもらえると、思わなかったです」

泣いてしまいそうな顔を隠すため、わざと満面の笑みを作った。

「成長した私を課長に見せられたと思って、いいんですよね?」
「ああ」

こうして九条を前にして、九条を想う気持ちが少しも変わっていなかったのだと思い知らされる。

「私、めちゃくちゃ稼げるようになったんですよ。ほんとに、頑張ったんです」
「ああ」

何かを言っていないと、おかしなことを言ってしまいそうで。矢継ぎ早に言葉を紡いでいく。

「向こうで、誰よりも成果を出したくて。社の利益を上げたくて。プロジェクト、成功させたくて……」
「ああ」
「誰にも何も言わせないように、あなたに認めてもらえるように、課長に知ってもらえるように、あなたのおかげでこれだけ成長したんだって、わかってもらえるように……」

こぼれ落ちそうになる感情をどれだけ引き戻そうとしてもダメだった。

「辛い時、この時計が、私をずっと、支えてくれた」

九条からもらった手首にある腕時計を握りしめる。

「私は、ずっと、あなたのことが――」

ずっとずっと、忘れられなかった。あの頃からずっと、好きで好きでたまらなかった。

この感情を、失くすことなどできていなかったのだ。


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