冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
九条が麻子の言葉を遮るように言った。
「抜けて来たんだろ? そろそろ戻った方がいい。君は主役なんだから」
「あ……」
続く言葉を察知してそれを言わせないようにした――。
まるで、今は、ただの上司と部下の関係でしかないと念押ししているみたいに感じられる。そのことに勝手に傷ついていた。
いくら、三年という時間があっという間に巻き戻ったのだとしても、九条がどう感じているかはわからないのに。
課長にとっては、もう終わった過去のことなのかもしれない――。
「は、はい。そう、ですよね……」
このまま戻ってしまったら、この先もう二度と二人で個人的なことは話せないような気がしてきて、すぐにこの場を立ち去れない。
「じゃあ――」
「――課長は……っ」
くるりと踵を返す九条に咄嗟に声をかけていてた。
「ん?」
九条が顔だけをこちらに向ける。
「課長は、今、幸せですか?」
この人が幸せなら。
私の気持ちは迷惑にしかならない――。
無意識のうちに手のひらをきつく握りしめながらその答えを待った。
「――ああ」
深く息を吐くように静かに九条が頷く。
「幸せだよ。もう何も望むものなんてない」
鋭い刃物で刺されたように胸に痛みが貫いた。
幸せだと言う九条に本当なら喜ばなければならないのに。自分の想いはもう必要ないと言われたことに、身勝手にも傷ついている。
大切な人の幸せを喜べないなんて――。
「こうして今、立派になった君の姿を見ることができて嬉しいから」
その言葉に、俯いた顔を上げ九条の目を見た。
「私にそれ以上の望みはない。君はこれからどこにでも飛んでいける。どんな風にも生きていける」
そう言うと、納得したように頷いて九条は背を向けた。手を伸ばせば届く背中は、結局触れることができないままで遠ざかって行った。
その姿が見えなくなったと同時に、涙が一粒、アスファルトに落ちる。
身体中から力が抜けたまま、店に戻った。
「中野さん……っ」
麻子をすぐに見つけた藤原が、その様子から何かを察したのか言葉を飲み込んだ。
「藤原さんは、ご存知なんですよね?」
そうとだけ聞くと、藤原が「ああ」と短く答えた。
「九条さんは、上司として、部下だった私の成長を喜んでくれた。それ以下でもなければそれ以上でもないんです。だから、私はもう、前を向かなくちゃいけないですよね」
麻子の前に立つ藤原は何も言わず麻子を見つめる。
「……だから、この先の未来は交わることはない。それを九条さんも望んでる。お気遣いくださってありがとうございました」
涙の跡に気づかれたくなくて勢いよく頭を下げる。無言のままの藤原の横をすり抜けた。
頑張った自分を見せることもできた。
成長した姿を見せることもできた。
そして、あの人は私を認めてくれた――。
この恋は、きっとここまでだ。
本当の意味で強い大人にならなければ。
どれだけ忘れられなくても、どれだけ生々しくあの人への想いが心に残っていても、それも全部飲み込んで抱えて、生きて行かなくちゃ――。
その夜、引っ越したばかりのマンションの部屋で一人泣いた。
以前住んでいたアパートよりも少し広い部屋。窓一面の東京の夜景が滲む。
心の中の想いも思い出も、そしてこの日三年ぶりに見つめたあの人の姿も眼差しも匂いも、何もかも。
この涙と一緒に流してしまうために思い切り泣いた。
最後に、一つだけやり残したことがある。
三年前に九条が結愛に渡したお金を返すことだ。
『君が今より偉くなって、幹部にでもなった時。その時一括で返してもらおう』
そう言って笑っていた九条の顔が、つい最近のことのように鮮明に浮かぶ。
さすがに幹部ではないけれど管理職にはなった。
それで、この想いにけじめをつけるのだ――。