冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


 結愛が転がり込んで来た時に渡したお金と、ホストに貢がされて作った借金を肩代わりしたお金。それを準備し終えた。

 事前にアポを取れば、拒否される可能性がある。申し訳ないが、いきなり九条をたずねるという選択をした。

 この日は週末金曜日。溜まっていた雑務を片付ける。

「課長、まだ、残られますか?」

部下の一人がこちらを見た。

「……あ、はい、今日中に片付けておきたい仕事があるので。でも、お願いするような仕事はないので気にせず帰ってくださいね」
「じゃあ、お先に失礼します」
「お疲れ様でした」

まだ、課長と呼ばれることに慣れなくて、自分のことだと認識するまでに間があいてしまう。

 1時間ほどして、最後の課員が帰って行った。一人になって、時計を見る。時計の針は21時を指していた。
 週末金曜日、プロジェクトでもない限り、帰宅する社員が多いだろう。令和の時代でも、商社で働く人間は何かと飲み会をする。週末ともなれば尚更だ。

あの人を除けば――。

この日、九条が一人で残っていると聞いていた。美琴に九条の部署に探りを入れてもらったのだ。

『ちゃんとケリをつけようと思ってる』

そう美琴に伝えたら、『悔いのないようにね』と肩をポンと叩かれた。

 ガラスの向こうの夜景を見て大きく息を吐いた。そして、バッグを手に席を立つ。

九条と言葉を交わしてから一週間。無理矢理に自分の心を整理した。

大丈夫。ちゃんとやれる――。

最後の場所を社内にしたのは、余計なことを言わないようにするためだ。必要最低限のことを伝えて終わりにする。社内であればおかしなこともできないし感情を露わにしたりもできない。社内という環境が自分に自制させ、自分を守ってくれるとも思えた。

 静まり返った廊下を一歩一歩、噛み締めるように歩く。九条のいる部長室へと向かった。

九条の部屋は麻子の執務室があるフロアより上にある。エレベーターホールで待っていた。エレベーターが到着したことを知らせるチャイムと共に、ドアが開いた。それに乗り込んだ時――。

「待て……っ!」

切羽詰まった声が聞こえたと同時に、閉まりかけたドアをこじ開けて九条が飛び込んで来た。

それに驚いて振り向いた瞬間、麻子の腕が引き寄せられた。九条が後ろ手で素早く階表示ボタンを押すと、麻子を強く抱きしめた。

「行くな」

上昇して行く箱の中で、この状況がわからなくて混乱する。

「え、あの、行くなって、どこに――」
「いや、絶対に行かせない」

押し付けられた九条の胸からは恐ろしいほどに早い鼓動が聞こえてくる。呼吸が乱れているのは、それだけ急いで走ってきたからだろうか。九条が息を切らして走るなんて想像もできない。

「君をどこにも行かせない」

その声は、心の奥底から絞り出したような感情に塗れたものだった。

どうして九条がそんなに焦っているのか、どうしてこんな行動に出ているのか何もわからないのに、その言葉だけで麻子の心を震わせる。

麻子の背中にある手に、さらに力が込められた。

「君の幸せのためには、俺ではだめだと思って来た。そうやって自分を必死に納得させてきた。納得できているとも思っていた。それなのに、全然だめだ。納得など全くできていなかった」

頭が理解する前に、涙が溢れてくる。

「また、君を傷つけてしまうかもしれない。辛い思いをさせてしまうかもしれない。それでも俺は君といたい。勝手でも傲慢でも、君が欲しいと言わせてくれ」

九条から初めて向けられた言葉。

「……本当に? この先も、私といたいって思ってくれるんですか?」 

完全に離れる覚悟でいた。違う未来を進むのだと。

「これまで俺が臆病だったせいで、君に何も言ってあげられなくて悪かった。本当はずっと、君といたいと思っていた」

狭い空間の中二人だけ。焦がれた人の腕の中にいる。その事実に感情が決壊した。

「その言葉を、ずっと待ってました。ずっと……っ」

九条の背中に自らも手を回し、しがみつくように抱きつく。夢ではないようにと、できうる限りの力入れた。

「麻子……、もう、他の男との未来を見たりするな」

九条が麻子の髪に長い指を差し入れ頭を引き寄せると、愛おしむように唇を寄せて囁く。

「え……? 何の話ですか?」

“他の男との未来“ ――とは?


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