冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「――聞いていて気持ちのいい話では無かっただろう?」
話し終えたあと九条が浮かべた笑みは、どこか歪んで見えた。
「……いえ。話してくれてありがとうございます」
両親がいないことと学生の頃苦労していたことは、以前副社長の娘のすみれから聞いていた。でも、実際九条から語られた過去は、想像していたものよりもずっと過酷で暗いものだった。
「麻子が自分の生い立ちを話してくれた時、全てに共感した。最初は、君と私は同じ人種なんだろうと思った。でも、」
九条が優しく麻子の頬に触れる。
「君の上司として再会した時、君は同じ経験をしているはずなのに、俺とは全然違う人間だと知った。俺のような醜く歪んだ人間ではなく、どこまでも真っ直ぐな人だった」
麻子を見つめながら、噛み締めるように言葉を紡ぐ。
「そんな君に、気づいた時には惹かれていた。でも、同時に、君を手に入れてはいけないと思った」
「どうしてですか? 私を、インドネシアに赴任させたかったから……?」
ここまで九条の意思は揺らがなかった。そこまで頑なだったのはなぜなのか。
「もちろんそれもある。でも、それ以上に、俺が君を幸せにできる男ではないから」
「どうして……?」
「愛されたことがないから、どうやって愛したらいいかわからない。温かい家庭も、誰かを幸せにする術も、何も知らない空っぽの男だ。人間として大事な感情を全て捨てて生きて来た。そうでいないと、到底自分を保てない人生だったから」
「それなら、私だってそうです。あなたと同じ」
そう訴えると、九条が頭を横に振った。
「君は違う。辛いことばかりだったはずなのに、優しくて思いやりのある人だ。君は幸せになれる。麻子の惨めさや孤独を誰よりも理解できるだけに、俺のような男といてはいけないと思った。君には幸せになってほしかった」
その言葉に涙が溢れる。九条がそんなことを考えていたなどと、まったく知らなかった。
「その上、俺には面倒な親族もいる。俺は何かと人に恨まれる人間だ。麻子には何の影も足枷もない幸せな未来を手にいれてほしいと思った。俺は自分がしてやれることをして君を成長させられたら、それでいいと……」
九条がこれまでしてきてくれたこと、それらが全部線になって繋がって心に染み込んでいく。自分がどれだけ深く愛されていたのかを知る。
「もう、そんな葛藤しないで。私はそんなに弱くない。少しはあなたの弱さを受け止められる。誰かに幸せにしてもらうだけの人生なんて望んでません。誰でもない、あなたがそれを私に教えたんでしょう?」
「麻子……」
九条の目が僅かに見開く。
「お互いに足りないところを埋め合わせながら一緒にいる。それだけでいいじゃないですか。大切な人だから一緒にいる。それ以上に何の資格がいるでしょうか」
九条の瞳が潤んで見える。それは九条の涙のせいなのか自分の涙のせいなのかわからない。
「……そうだな」
長い人差し指が優しく麻子の涙を拭った。
「人生で初めて、俺の全てを曝け出してしまった。君の前では、これまでの自分ではいられないかもしれない。この先の人生は、ただ君に溺れているだけの男になってしまいそうだ。――そんな俺でもいい?」
それに全力で答えるために、九条の首に子供のようにしがみついて声を上げる。
「いいに決まってます!」
大きな手のひらが背中をしっかりと支え、九条が「ありがとう」と低く甘く囁いた。