冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「――あの二人には、ちゃんと報告した方がいいですよね?」
午前中も終わる頃にベッドから出た。かろうじて九条の家にあった食料品であるレトルトのパスタを、ダイニングテーブルで食べる。
「ああ、藤原と有川さんか……。藤原の下手な芝居にまんまと騙されたかと思うと腹立たしいが。まぁ、あの二人のおかげでもあるしな」
九条が頬杖をついて、麻子に微笑む。
「はい」
「……でも、やっぱり、素直に礼を言うのは気が進まない」
「どうしてですか?」
無造作な前髪の隙間から見える眼差しが、少し意地悪なものになった。
「藤原に騙されなくても、俺が耐えられなくなるのは時間の問題だっただろう」
「そ、そんなの、結果論ですよ……っ!」
麻子がすかさず反論しても、九条が構わず続ける。
「昨日、唐沢専務のところに行くと思っていた君を捕まえた時、俺も一緒に見合いを断りに行く勢いだったから」
「まさか……」
それはつまり、社の人間に自分たちの関係を明かしてしまうということだ。
「あの短時間で、その覚悟をした」
そう言うと、九条がふっと息を吐き苦笑した。
「本当に、自分勝手な男だよ」
「やっぱり、あの二人には感謝しなくちゃ。あんな余裕のない九条さんを見ることができたから」
あれほどまでに焦る姿の九条は一生見られないような気がする。
「……そう言えば、君も俺のところに来ようとしてたと言ってたな」
「あ――」
あまりの怒涛の展開にすっかり頭から消えていた。
「ケジメをつけに……あなたにお金を返しに行こうとしてたんです!」
「……金?」
バッグに入っている封筒を取りに行き、椅子に腰掛けている九条に差し出した。
「3年前、あなたが私の従姉妹に渡したお金です。私、幹部ではないですけど、管理職にはなりました。それなりの収入も得ています。きちんと返したいと思って頑張って来たので、受け取ってください!」
突き出した封筒は宙ぶらりんのままで。痺れを切らし顔を上げると、九条が訝しげな表情をして口を開く。
「やけにその封筒には厚みがあるように見えるが? 君の従姉妹の引っ越し費用にしては、おかしいな」
「あなたがそれ以外にもあの子にお金を渡したこと知っているんです」
結愛がホストに貢いだせいで出来た借金を九条が肩代わりしたこと。それは麻子は知らないことになっていた。
でも、三年経った今なら、もうオープンにしてもいいと思った。
「……まったく。隠し通せと言ったのに、それさえ出来ないのか」
「すみません」
大きく溜め息を吐いたあと、目の前に立つ麻子の腰を引き寄せた。
「その金は、君が持っていて」
「私は受け取ってほしいの。私が頑張って来た証でもあるから」
「君の気持ちは分かってる」
必死に訴える麻子の手を握り、まっすぐに見上げて言った。
「受け取らないと言ってるんじゃない。どうせ、それは二人の金になるから、君に持っていてほしいと言ってるんだ」
「……どういうことですか?」
意味がわからず、ただ九条の目を見つめ返す。
「そう長くは待たせない。少しだけ待っててほしい」
握っていた麻子の指を自分の唇に寄せた。
その仕草がどこか神聖なものに見えて、訳がわからないまま頷いていた。