冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「なんだって?」
「言葉を慎んでくださいということです」
「もう一度言ってみろ!」
治郎が立ち上がり麻子を怒鳴りつける。
「母が皆さんにご迷惑をおかけしていたのは知っています。ですが、最後くらいは言葉を選んでもいいのでは?」
母親が好き放題して生きてきたのは、当時15歳だったからもうなんとなくは分かっていた。
母親と二人で暮らしていた時も、伯父にも祖父母にさえも会ったことがなかった。死んだとも聞いていなかったから、縁を切られているのだろうと薄々分かっていた。
そして、顔も知らない父親。真っ当な恋愛ではなかったことも想像できる。
それに。母親は、いつも酒の匂いを漂わせて帰って来た。いつも男の影が付き纏っていた。
まともな生活ができる人ではなかった。常に男に縋って男に捨てられる。そんな人生だった。
だから、私は――。
あの頃の薄汚いアパートの光景が浮かび上がって来る。
「……言葉を慎め? よくそんなことが言えるな。一番酷い言葉をあいつに言ったのは麻子だろ!」
「お父さん、その話は――」
「うるさい! おまえは黙ってろ」
治郎が敦子を押し除け、麻子に顔を近づけてきた。
「麻子、おまえが最後に母親と交わした言葉、言ってみろ」
「……や、やめて、ください」
ドクドクと心臓が爆音を身体中に響かせる。皮膚を冷たい汗が大量に流れ落ちて来る。
「真代の葬式の日、気が狂ったように泣き喚いたのを忘れたか?」
「やめて――」
ずっとずっと、都合の悪い過去に蓋をして。記憶から目を逸らして生きて来た。思い出したら自分を許せなくなるから。
「出かける真代にこう言ったんだよな?」
お願いだから、やめて――。
「『あんたが母親だなんて恥ずかしい。帰って来ないで』って言ったんだろ! そのあと、真代は車に轢かれて死んだんだよな?」
「や……っ!」
「おまえの望んだ通り、本当に帰ってこなかった!」
「やめて!」
『大人のくせに、どうしてそんなにだらしないの?』
『男に縋って、媚び売って、見てられない』
あの、酒とタバコと香水が混じった匂いが大嫌いだった。
濃い化粧をして、いい年して露出の高い服を着ている母親を同級生に見られるのがたまらなく嫌だった。
『あんたは、母さんが媚びうった男から貰った金で勉強してんでしょ? 生意気言うんじゃないよ』
明け方になってやっと、大嫌いな匂いをさらに濃くして帰って来るんでしょう?
そんなお母さん、見たくないんだよ――。
『男のとこ行くくらいなら、帰って来ないでよ!』
そう言った時、母親の顔が一瞬歪んだ。確かにその目を伏せて歪ませた。それが、麻子が見た生きている母親の最後の顔だった。