冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜

 膝の上に置いた手の甲に滴り落ちる生温い雫に、自分が泣いているのだと気づく。慌てて拭っても拭っても、一度堰を切った涙は溢れ出した。これまで何年も留めて来た涙は、自分自身を裏切るように流れ落ちていく。

「あ、麻子ちゃん、大丈夫……?」

敦子の声が遠くなる。呼吸が苦しくなる。これまでどうやって息を吸って吐いていたのか急にわからなくなった。

「唇真っ青だよ。落ち付いて――」
「……ご、ごめんなさ――」

逃げ出したい。ただその気持ちだけだった。過去の自分が、違う自分を必死に演じてもがき苦しんだこの家から逃げ出したい。

バッグを掴んで、その場から飛び出した。

――だから、ここには戻って来たくなかった。ずっと遠ざけて気た。不都合な自分を見つめたくないから。自分を育てた母親に吐いた言葉を思い出したくないから。

 それから、田舎道をひたすらに走り、途中で捕まえたタクシーに乗った。どうにか東京に戻って来た。

 頬のファンデーションは涙の筋で禿げて、酷い有様だ。

 土曜日の夜七時。街の中は、休日を楽しむ人たちで賑わいを見せている。黒いワンピースを着た麻子は、その中で浮き上がるみたいに別世界の人間のようだった。

 古ぼけたアパートは完全に暗くなった中で、溶けてしまいそうに見えた。

 足を引き摺るように階段を上る。バッグの中から鍵を取り出し鍵穴に差し込んだ。そこで、鍵を回すのに躊躇う。

この向こうに結愛がいる――。

結愛と今は向き合いたくないけれど、今からどこかで時間を潰す気力は残っていなかった。

 諦めて鍵を開ける。明かりが和室から漏れている。パンプスを脱ごうとした時、見たこともない男物のスニーカーが視界に入った。

まさか、男、連れ込んでるの――?

嫌な緊張で心拍数が上がる。

「……っ、や、ぁ」

結愛の甘ったるくて鼻から抜けるような声に嫌悪が込み上げた。

「お、おい、玄関から音が――」

え――。

その声を聞いた時、嫌悪なんて生易しいものとは程遠い感情が身体を突き抜けた。

「うそー。結愛、聞こえなかったよぉ。それより、もっと、シよ?」
「マジで聞こえたって!」

動けないと思った自分の足が、誰の意思によってなのか勝手に動き出す。

「あ、麻子……!」

自分のベッドに、結愛と祐介が全裸で重なりあっていた。

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