冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


「……やべー。どうしよう」
「まだ、他に何かあるんですか?」

みるみる田所の額に汗が滲み始める。

「会計に出す出張資料も11時までなんだよ」
「会計課に、なんとか期限延ばしてもらったらどうですか?」
「……実は、既に一週間、延ばしてもらってる」

この人は一体何をやっているのだ。

田所が言っているのはおそらく海外出張の旅費の精算関係の書類だろう。そんなの帰社してからすぐに取り掛かっているべきもの。そもそも田所が出張に行っていたのは一ヶ月以上前だ。

 目の前の田所がいよいよ今にも倒れそうな表情になっている。

「課長からの資料の修正って、何が足りなかったんですか?」
「え? ああ、A社の上半期の決算資料のこの部分なんだけど――」
「それなら、決算関係のデータから引張って来れば、そう難しくなくできますよね。データの作成はしておきますから、早いとこ会計にそれ提出しちゃってください」
「マジ? ほんと、助かるわ。じゃあ、頼む」
「了解です」

素早く田所の元に戻された資料を受け取る。倒れられても困るし、あれ以上課長に叱責される姿も見たくない。

「中野、ありがとな。恩にきる!」
「困ったときはお互い様で。気にしないでください」

肩をすくめて顔の前で両手を合わせる田所に、笑顔を向けた。

 早速、A社のデータを照合し表を作成する。キーボードを叩きながら、これから進めようとしていた自分の仕事の段取りを組み変える。少しタイトになるけれど、どれも間に合うだろう。ここは、日頃から締切より早めに仕事を進めていたことに助けられた。

 田所は、この席から少し距離のある課長をチラリと確認してから執務室を出て行った。

「――中野さんって、いつも頼りになりますよね」
「え? あ、ああ、丸山君、おはよう」

田所とのやり取りで丸山が出勤してきていることに全然気づかなかった。

「俺がここに異動して来て、最低でも3回は田所さんが中野さんに助けられているところを見てます。けど、中野さんが田所さんに助けてもらっているところは、未だ見ていません」
「まあ、丸山君が異動してきて、まだ一ヶ月でしょ? 私が助けてもらうこともあるんだよ」

丸山智樹(まるやまともき)、入社二年目の若手社員だ。この4月から麻子が丸山の指導係になっている。丸山は、前任の課長からの評価がすこぶる高かったらしく、本人の希望もあってこの事業投資部門の課に異動して来た。

「この激しい競争の中、人助けまでして。中野さんって、親切なんですね」

隣の席の彼が整った笑顔を向けて来る。完璧過ぎて人間味のない笑顔に、曖昧に笑って応える。

親切――その言葉に、どこか棘を感じるのは考え過ぎだろうか。

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