冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「今日、母の13回忌がありました。思い出したくない過去を思い出して逃げ出して。本当に最低な人間です――」
一缶のビールと九条の言葉。それが、麻子の心を解放した。
この日あった苦しみを、吐き出していた。
疲れ切った身体と心は、言葉一つが感傷的に感情を揺さぶる。
恐らく、取り留めない支離滅裂な話になってしまっていただろう。でも、九条は何も言わず、ただじっと聞いてくれていた。
「――母親のことが恥ずかしくてたまりませんでした。その日、もう耐えられなくなって。あんたが母親なのが恥ずかしい、もう帰って来るなって、言ったんですよ。夕方仕事に出かける母親に言い放ちました。そうしたら、本当に、帰って、来ませんでした……っ」
乱暴に目を擦る。
「それよりもっと最低なのが、母親に最後に酷いことを言ったことをずっと封印してきたことです」
"麻子――"
最後に聞いた母親の声。何を言おうとしていたのだろうか。
「お葬式の時にも、母の遺体が焼かれる間際も、謝ることもできなかった。向き合えなくて、今も母に謝れていません。謝れないんですよ」
母親は成仏出来たのか。きっと、娘を恨んでいるだろう。
「……一緒にいた時から、母に優しい言葉なんて掛けたことないから。ずっと、嫌いで。たまらなく嫌で。それが本心だったから。少なくとも、母が死んだと聞く直前まで母のことが嫌いでした」
母が死んだと聞いた時、悲しみよりまず絶望が来た。もう二度とやり直せない全てに絶望した。
「伯父に忘れていたかった過去を突きつけられて、逃げ帰って来たら、恋人が私の従姉妹と抱き合っていました。バチが当たったんです。でも、そんな程度で許されることじゃないですよね。私が傷つく権利なんてないんです。なのに――」
どれもこれも聞くに耐えない話だ。
そんな話を部下から聞かされても、きっと困るだけ――。
「――どれだけ酷い母親でも、心の底では子供のことを愛していたはずだ――なんて、綺麗事を言うつもりはない。子に対して全ての親が愛情を持っているわけじゃないからな。ただ、これだけは言える」
ゆっくりと九条が口を開く。
「君の母親は君のことを恨んだりはしていない」
「課長……」
いつもと同じ、切れ長の鋭くひんやりとした目。でも、その声はどこか染み入るようなものだった。
「息を引き取る瞬間も、君の言葉のことなんて考えていない。違うことを思ったはずだ」
どうしてそんなことを断言できるのだろうか。そう思うのに、九条の言葉が麻子の心にスッと入って行く。
「それに、子が親を嫌うことに罪悪感なんて持つ必要ない。それは子供の責任ではないからな」
麻子に向けられた九条の眼差しを涙を拭くのも忘れて見つめていた。その目を見ているとさらに涙が溢れて来る。
「……君の母親は今、こう思ってるかもしれない。君が今、こうして真面目に自分の足で生きているのは母親である自分のおかげだってな」
「どうして、ですか?」
「反面教師にできただろう? 謝罪ではなく感謝しろと言っているかもしれない」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
「そんなの、勝手ですよ」
「そんなもんだよ、親なんて。だから君も、勝手でいいんだ」
涙を拭いながら笑う。
「……少しは、肩の力、抜けたか?」
笑う麻子を見て、九条が言った
「はい、課長のおかげです。今、笑えてますから」
「それはよかった。上司としての逸脱行為も少しは意味があったな」
少し伏せた九条の表情にどきりとする。そんな風に優しい言葉をかけてもらったことはない。
「……いつもの課長からは、考えられません」
だから、思わずそう呟いてしまった。