冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「今日だけだ。来週の月曜日には忘れていてくれ」
そう言いながら九条が手にしていた缶を煽る。
あれ――。
手にしていた缶のデザインが目に入る。それは、ビールではなかった。
「課長がお飲みになってるの、ビールじゃなかったんですね」
「……ああ」
九条が缶を口元から離す。
「君を不安にさせるわけにもいかないだろ」
「不安だなんて、そんな――」
「上司とは言え男の家に行くんだからな。不安にもなるだろ。まあ、酒が入ってないからと言って完全に安心できる訳でもないだろうが」
本当にこの行為に何の下心もないのだ。そんなことはもちろん分かっていたけれど、こうして改めて実感させらて何故か胸の奥がチクリとする。
励ますためだけにここまでしてくれた――。
嬉しいのにどこか哀しい。自分の心が分からない。
「――もう遅い。家まで送って行こう」
「い、いえ、そこまでしてもらうわけには――」
「ちょうど酒も飲んでいない。車の運転も支障がない」
あ――。
九条は既に立ち上がり、歩き出していた。ピンとした背中と広い肩が視界に入る。
「申し訳ありません」
慌てて麻子も立ち上がった。
この部屋に来て今まで、九条は麻子に指一本触れなかった。その身体が近づくこともなかった。
結局アパートの前まで送ってもらってしまった。
夜の道路を走る間、マンションの部屋よりも密室度が増して更に緊張して。より間近に九条を感じて、住所を告げる以外の会話をすることができなかった。横顔を盗み見るので精一杯だった。
「――遠くて、すみませんでした。課長、お疲れなはずなのに」
スーツ姿で会社にいたということは、土曜日だというのに仕事をしていたということだ。
「明日は休みだから気にすることはない。それより、大丈夫か?」
九条の少し言いづらそうな口調に、このアパートで数時間前に起きたことを思い出す。
「さすがに、もう出て行っていると思います」
そこまでデリカシーがない人間たちだとは思いたくない。
「中野さん」
九条の少し改まった声が車内に響く。
「何があっても、誰かに裏切られても、自分の足で歩いている人間はまた前を向ける。君と初めて話した時にも言ったが、とにかく仕事ができるようになれ」
首元できちんと閉められたグレーのネクタイと濃紺のスリーピースのスーツ。メタルフレームのメガネに、整えられた黒髪。360度完全無欠の上司の姿が目の前にある。
でも、ただの冷徹な上司だった九条が、まだ役職のない先輩社員だった四年前にタイムスリップしたみたいに思えた。
「……はい。精一杯、頑張ります」
もっともっと頑張って、この人に認められたい。もっともっと――。
運転席にいる九条が小さく頷いた。そして、ほんのわずかその上半身が麻子に近づく。
「――今日のことは、君と私の二人だけの秘密だ」
シトラスの香りが届く。そして、鋭利な眼差しが少しだけ細めらる。その視線に一瞬にして心奪われた。
「今日は、ありがとうございました」
車を降り、運転席側に回り頭を下げる。そして、車に背を向けた。
階段を上がり、ドアの前で深呼吸をする。そして自分を鼓舞して鍵を開けた。部屋は真っ暗だった。
安堵からか大きく息を吐く。
ドアを閉める前に九条の車が止まっていた場所を確認すると、まだ車があった。
そっと様子をうかがってしばらく経つと、ようやく車は動き出した。
もしかして、少し待っていてくれたのだろうか。私が、家で何もなくいられたか確認できるまで――。
玄関で座り込む。
この胸のざわめきをどう捉えたら良いのか分からない。