冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


「麻子ちゃん、おかえりー」

いつもの結愛の声。何も知らない人が聞けば、前の晩にあんなことがあったなど想像すらしないだろう。

「私の荷物、置いたままで出ちゃったから、取りに来たの」

こちらに振り向いてにこりと微笑んで見せると、再び顔を戻し、スーツケースに何かを詰め込み始めた。

「私、出てくからー。麻子ちゃん、良かったね。今日から元の生活に戻れるよ」

良かったね?
元の生活?

他に言うことはないのか。

無意識のうちに歯を食い縛っていた。

「……ベッド、処分しちゃうんだね。まだ綺麗だったのに、勿体無い。いらないなら、私もらうよ? 祐介くんちのベッド、シングルだから普通に寝るには狭くて。二つ並べるのもいいかも――」
「ふざけないで!!」

こちらに背を向けながら喋り続ける結愛に、耐えられなくなって叫んだ。

「私と暮らしながらこんなことしておいて、何とも思わないの? 自分が何をしてるか分かってる?」
「もちろん、ちゃんと分かってるよ。祐介くんのこと、欲しくなったからもらったの。ただそれだけのことだよ」
「……え?」

この子は、本当に何とも思っていないんだ――。

「祐介くんに初めて会った時、優しくて真面目そうだなって思って。麻子ちゃん、いいなぁって。結愛のカレになってほしいなって思ったから、祐介くんにそう言ったの。そうしたらね、祐介くんも『いいよ』って言ってくれて。だから、別にいいよね? だって――」

上目遣いのその目。きっと、その目で祐介のことも見たのだ。

「麻子ちゃん、私が欲しいって言ったら何でも譲ってくれたでしょ? 服だって、バッグだって、好きな人だって」

大きくくりっとした目が、麻子を見る。

「麻子ちゃん、優しいもんね」

高校生の時。同級生の男子に淡い恋心を抱いていた。少しずつ仲良くなって、二人で時折一緒に帰るようになって、初めて休みの日に会う約束をした。麻子は、その日に告白をしようと決意していた。

でも。

『麻子ちゃんがこのあいだ一緒に帰ってた山本先輩。結愛も好きになっちゃったの。だから、私が付き合ってもいい?』

二人で会う約束をしていた前日に、結愛にそう言われた。 

『……結愛のお部屋に麻子ちゃん来ちゃったから、本当は凄く狭くてプライベートもなくなっちゃって辛いんだ。でも、結愛、麻子ちゃんのためなら我慢できる』

潤んだ目で訴えられて。世話になっている麻子の立場で反論することなど出来なかった。

そうして、約束の場所には結愛が行った。麻子が急に行けなくなったことにして。

結局、しばらくして二人は付き合い出した。女の子らしくて愛らしい結愛に言い寄られて、断る男子はいない。

「――結愛も、祐介くんとちゃんと仲良くするから。祐介くん、結愛のこと好きになっちゃったこと麻子ちゃんには申し訳ないって思ってる。だから、カレのこと許してあげてね」

何でも欲しがる。そして、いとも簡単に奪って行く。

「……誰も、私のものではないもんね。祐介も」

誰も、私のものではなかった。
高校時代好きだった人も、そして、祐介も。
祐介だって、付き合っていただけで結婚していたわけじゃない。

結局、私は一人だ――。

「だから、祐介にも謝らなくていいって言っといて。その代わり、」

渦巻く葛藤も虚しさも哀しみも飲み込んで結愛を見た。

「もう、ここには来ないで」

そんな麻子をどこか見透かしたように結愛がふっと笑う。

「……やっぱり、麻子ちゃんは麻子ちゃんだ。一人で生きてける強くて立派な人だね」

スーツケースを閉じ、結愛が立ち上がった。

「そんなんだから、男の人に選ばれないの。だって、可愛げないもん」

立ち尽くす麻子の隣に来て耳元で囁く。

「……じゃあね、麻子ちゃん」

ぎゅっと目を閉じ、かろうじて声を絞り出した。

「鍵。うちの鍵、置いて行って」
「はいはい」

背後で、がちゃりと鍵をシューズボックスに置く音がして、すぐに扉が閉まった。

一人でも生きて行けるよ。これまでみたいに――。

"何があっても、誰かに裏切られても、自分の足で歩いている人間はまた前を向ける。君と初めて話した時にも言ったが、とにかく仕事ができるようになれ"

そうですよね。
私には信頼できる友達もいる。
頑張れる仕事もある――。

また、前を向こう。

もう何もかも忘れよう。
全てを忘れてリセットしよう――。

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