冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「お……お疲れ、様で、す」
不自然なほどに辿々しい。一発で心の動揺が察知されるであろう自分の声が、余計にこの緊張を増幅させる。
「お疲れ様」
九条は奥の壁に沿うように立っていた。
麻子は、すぐに操作盤の前に立つ。止まる階を確認すると、九条も麻子と同じ階で降りるようだった。
何か言うべきか。土曜のこと、お礼を言った方がいいんじゃないのか?
いやでも。あの時のことを蒸し返される方が迷惑かもしれない。課長の性格ならなおのこと。私は部下として課長の命に従うべきだ――。
必死に脳内で考え、結論を出したけれど。
たまらなく落ち着かない。まだ九条に背を向けているだけマシでも、このすぐ後ろに九条がいると思うと呼吸をすることさえ緊張する。
課長は、今、何を考えているんだろうか――。
――チン。
目的の階に着いたことを知らせる音が響いて、思わず大きいく息を吐き出しそうになって慌てて止める。行き詰まる状況から脱することができると、心からホッとして『開』ボタンを押そうとした。
でも、両腕に抱えたファイルのせいでボタンが押せない。どうしたところで無理だった。
「お、お先に、どうぞ」
とにかく九条に先に出てもらわなければと焦ったせいで、ギリギリのバランスで保っていたファイルの山がぐらつき始める。
「――君が、先に出なさい」
九条の声が不意に近づいて、目の前に腕が伸びて来た。
え……っ?
背後に気配を感じて、あろうことか勢いよく振り返ってしまった。その反動でファイルがエレベーター内に散らばる。
「わ、す、す、すみませんっ!」
バカなのか? 私は、バカなの――?!
課長は両手が塞がった私のため、代わりにボタン操作をしてくれようとしただけ。
なのに、こんなに動揺してあたふたして恥ずかしすぎる――!
咄嗟にしゃがみ、必死にファイルを拾い集める。顔から火が出るとはまさにこのことだ。
「何やってんだろ……」
「――いいから、急いで」
「……えっ?!」
もういないと思っていた九条が同じ目線にいる。すぐそばで九条もファイルを拾っていた。てっきり、もう先に降りていると思っていた。
「か、課長! 大丈夫ですから、お先に――」
「最初から私が半分持てばよかったな。気がきかなかった」
九条の横顔、伏せられた視線、九条の香り。視覚嗅覚に迫って、ドクンと胸がなる。こんなにも至近距離にいたことはない。あの、土曜の夜ですらこれほど近づいてはいない。
「……ほら、降りるぞ」
「は、はい」
ファイルの半分以上を九条が持ち、その後ろに続いてエレベーターを降りた。それと同時に扉が閉まる。
「ありがとうございます。すみませんでした」
誰もいないエレベーターホールで、九条に向かって頭を下げる。
「これはこのまま私が運ぶ」
「いえ、大丈夫です」
「どうせ君も課に戻るんだろ? 目的地は同じだから問題ない」
そう言うと、既に九条は歩き出していた。
「……ありがとうございます」
九条が少し近くにいるだけで、心がバカになる。
「中野さん」
「は、はい」
名前を呼ばれ、少し前を歩く九条の背中を見つめる。
「君にしてもらいたい仕事がある。今週は忙しくなると思うから、そのつもりでいてくれ」
「はい、分かりました」
むしろ助かる。仕事に没頭していれば余計なことを思い出さなくて済む。あの二人の顔が浮かびそうになってかき消した。
「――ミスは許されない。仕事のこと以外考えている余裕はないと思え」
「……え? あ……」
課長――。
「は……はい!」
背中しか見えないけれど、背中だからこそ、その広い背中をじっと見つめる。
自分に都合のいい考えかもしれない。ただの考え過ぎかもしれないけれど。
その言葉は、九条なりのエールのような気がした。
やっぱり、それはただの妄想だけれど。