冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜



「――というわけでさ、今日は、死ぬかと思った」

この日の仕事帰り、エントランスで同期の有川美琴《ありあわみこと》に出くわした。その流れで、二人で社から少し離れた居酒屋で一杯飲んで帰ることにしたのだ。今夜は誰かに話を聞いてもらいたい気分でもあった。

「それはお疲れ様だったね。ほら、飲みな、飲みな」

同期入社の美琴はとびきりの美人なのに超がつくほど気さくで、麻子が仕事面でもプライベートでも一番頼りにしている同僚だ。

禿げた部分なんて見たことない、完璧なネイルを施した手で生のジョッキを持つ。

優雅にふわりと揺れる髪からはいい匂いがして、ピンクベージュのフェミニンでスタイリッシュなスーツ姿。麻子の、いつまでもリクルートスーツ感が抜けきらない感じとは訳が違う。彼女は帰国子女で英語はネイティブ並み、仕事もできるときている。美琴に会うといつも見惚れてしまう。

「朝からトラブルで、そのせいで課長がお怒りで。課員みんな凍りついてびくびくよ」

結局あのあと田所の資料はなんとかなったが、その会議で田所は課長から集中砲火にあった。それはまさに会議資料の作成ミスの見せしめなのか。あれは公開処刑だと言っていいだろう。

それを見せられていた課員も他人事ではない。明日は我が身だ。その後、それぞれが自分の仕事を息するのも忘れるほど張り詰めた状態で処理したのは間違いない。

「まあ、あの九条課長だからね。働き方改革とか、パワハラ禁止とか、あの人の辞書にはないでしょ」
「確かに、言葉はきついとこあるけど、無理難題を押し付けて来るわけでも意味ない業務を延々させるタイプでもないよ」
「今時、若手社員にきつい言葉なんて言っちゃいけないの。すぐパワハラだなんだって騒ぐ奴いるし。上司たちだって、若手に辞められたら困るからって、新入社員のことは守ってばかりでさ」

美琴がぐいっと生ビールを口にすると、テーブルにジョッキを置いた。

「その点、部下に毒舌を吐いても許されてるのは、九条拓也が超有能だから。本人も絶対に自分が処分されるわけないって確信してるよね。あの人に泣かされた社員、男女問わず何人いると思ってんの」

九条がこの4月に異動して来る前から、噂では嫌というほど聞いてきた。超優秀で莫大な利益を上げてきたと有名だった。

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