冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


「……ホント、中野さんって、超がつくほどお人好しですよね」
「そうでもないよ」

それもまた、これまでは自己保身のためだった。

「俺のせいで、あなたの評価も下がってるかもしれないのに」

そんなことを言う丸山に、今度は本当に笑ってしまった。

「そんなこと気にしてくれるの? 大丈夫。私、大ミスしてこの前も課長に怒られてるから。今更だよ」
「なら、余計にまずいじゃないですか。中野さん。マジで呑気すぎ」

丸山がふっと笑った。いつものどこか要領の良さそうな作られた笑顔ではない、丸山の素の笑顔に見えた。

「だからもっと頑張るよ。課長に認められたいし」

あの人に、一言『よくやった』と言わせることができたら、何よりも嬉しい気がする。

「どんな上司より、あの鬼課長に認められたら本物な気がしない? どこに行ってもやってける証明書をもらえるようなものだよ」
「……確かに」

丸山も頷いている。

「じゃあ、戻りますか。仕事は山積みだよ」
「はい」

怒られても呆れられても、罵倒されても。絶対に挫けたりしたくない。


 その夜、仕事を終えてアパートに帰り着くと、アパートの敷地の前に祐介が立っていた。

「……麻子」

その姿を視界に入れただけで、裸体が絡み合う光景を見た時の苦しみがフラッシュバックして、喉が圧迫される。祐介がこちらに近付いた分だけ後ずさった。

「アパートの鍵、返しに来た。そっちも、俺の部屋の鍵返して欲しい」

差し出された鍵に伸ばした手が震える。結愛に触れた手に触れたくない。祐介を見ているのも無理だった。

なんとか鍵を受け取り、バッグの中のキーケースから祐介の鍵を取り出す。

「麻子の部屋にある俺の私物は全部処分してくれていいから。麻子のものは今日、持って来た」

鍵を受け取ると、今度は紙袋を差し出して来た。少なくとも一年間、祐介とは同じ時間を過ごして来た。それがすべて消えてなくなったみたいだ。

「麻子は、俺に何か言いたいことないの?」

穏やかで誠実そうな祐介に好感を持った。そう見えていた祐介はもういない。

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