冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「――中野さん、ちょっと」
午後の始業と同時に九条に呼ばれた。
「何でしょうか」
「今度、本部長にこの案件で説明に入るんだが、君も同行してくれ」
「え……? わ、私もですか」
デスクで資料に目を通している九条を上から見下ろす。きっちりと整えられえた黒髪に視線が行くと、その顔がむくりと上がった。
「今、本部長への説明資料を作っているのは君だ。何も不思議なことはないだろ?」
「はい。分かりました」
営業本部長は、社内の部長職とは違う。全営業部門のトップ。営業本部長室になど未だかつて足を踏み入れたことはない。
「それで、一度資料を確認しておきたい。朝イチで提出してくれ。少しタイトだが、大丈夫か?」
「明日の朝なら大丈夫です」
今日中になんとか仕上げられるだろう。
「じゃあ、よろしく頼む」
「では、失礼致します」
これまで、上司に同行して幹部の元に行ったことなどない。扱っている案件の規模が大きいものばかりで、麻子のような若手社員はどうしても作業要員となってしまっていた。
すぐに資料作成の続きに取り掛かる。
これまで作成してきたルーティンの報告書とは訳が違う。今度は事業を提案するための、いわばプレゼン資料。そこに盛り込むべきデータや分析については、九条から細かく指示されていた。
九条から要求されるレベルが高くて、はっきり言ってかなりきつい。
事業の提案と言っても大きな案件ではないけれど、それ自体が麻子にとっては初めての経験だった。
おかげで事業を提案するために必要となることを全て把握することができた。
九条の指示ということは、絶対に外せない重要な視点だということだ。できる限りのことを吸収したい。
「丸山君、W社の月次報告、進捗は?」
「……あ、はい。締切2日前には中野さんにチェックお願いできると思います」
「了解。何かあったらすぐに言って」
九条からの仕事だけが仕事ではない。麻子には通常業務もある。丸山のこともきちんと見ていなければならならない。
自然と、仕事は深夜にまで及んで来る。軽く夕食を取った後、すぐにまた仕事に戻った。
ここのデータは、このデータと並べた方がインパクトがあるかもしれない――。
負担は大きいけれど、余計なことを考える暇がないのも麻子にとってはちょうど良かった。
「……ほら」
え――?
パソコン画面に意識を完全に取られていると、背後から紙カップを差し出される。それに振り返ると九条が立っていた。
「か、課長!」
「根詰め過ぎだ。少し目を休ませろ。ミルク多めのカフェオレだ。飲みなさい」
「……え?」
あたふたと周囲を見渡すと、たくさんいたはずの同僚たちは既にいなくなっていた。壁にある時計は23時を指している。
「夜遅くからカフェインはあまり取らない方がいいからな」
「あ、ありがとうございます」
私に――?
一人動揺する麻子とは対照的に、九条の淡々とした声ががらんとしたフロア内に響く。
九条から受け取ったカフェオレを口にする。ほんのりとしたミルクの甘味が、張り詰めていた脳をほぐしていく。
ジャケットを脱いだベスト姿の九条は、自分の席に戻るとすぐに仕事に取り掛かっていた。
課長もこんな時間まで残ってるんだ――。
決して分かりやすい労いの言葉なんかくれないけれど、こうして見ていてくれる。手のひらにあるカップの暖かさに心がじんして。それと同時にドクンと大きく鳴った。
どんな言葉でも、どんな些細な関わりでもいい。課長に見てもらいたい。
そんな感情が膨れ上がる。