冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜

「大丈夫か?」
「課長、どうしたんですか……」

立ち上がらなければと思っても、身体が思うように動かない。少し動かしただけでぐらりと身体が揺れる。

「動くんじゃない! 体調が悪いんだろ」

聞いたこともないような余裕のない声で麻子の元に駆け寄ると、倒れ込みそうになった身体を抱きとめた。

「様子が気になって戻ってみれば……。医務室に行くか? それとも、そのまま病院に――」
「いえ、少し休めば、大丈夫です」
「座ってもいられないくせにバカを言うな」

課長の腕の中にいる――。

初めて触れた。身体を支える大きな手のひら、スーツ越しの胸から振動を感じる声。その全てが感情を掻き乱す。

「どれだけ我慢していたんだ」

ぼやけた視界の先に、こちらをじっと見つめる九条のレンズ越しの目があった。

うまく働かない脳のせいで心がむき出しになっていく。 

「動く方が辛いので。本当に、大丈夫ですから、課長は戻ってください」

これ以上九条といたら、もう誤魔化せなくなる。

「君も強情だな。だったら、私もこのままここにいるぞ。それでもいいのか? 医務室に大人しく運ばれる方がマシだろ――」
「なら、このままがいいです……っ」

なのに、動き出そうとした九条を引き留めるように咄嗟にそう口走っていた。

このままでいたい。こうしていたい。そんな感情だけが残されて他のことを考えられなくなった。

「……本当に、君には手を焼く」

聞こえるか聞こえないかの溜息混じりの声がした後、九条が麻子に回していた腕を解きその身体を自分の方へともたれさせた。

「10分だぞ。10分経ったら医務室へ連れていく」

課長の肩と腕に身体を預けている――。

自分のしていることが信じられないのに、もう、現実でもそうでなくてもどうでもいい気がした。

ただ、触れていたい。

「……君なら、限界を超えてでも無理するだろうとわかっていた」

肩を貸し隣に座っている九条が、ぽつりと言葉を漏らし始めた。

「わかっていて、あれもこれもさせた。役員相手の仕事でプレッシャーもあっただろう。ただでさえ、君は辛いことがあったばかりだ。身体が悲鳴をあげても無理はない」

無理をした一番の理由はそれじゃない。もっと、身勝手な理由だ。

課長に認めてもらいたかったから。
課長と副社長の娘さんとのことを考えたくなかったから。全部、あなたが好きだから――。

「気をつけてやれなくて、悪かった」

誰もいない会議室の静けさの中で、落ち着いた低い声だけが響く。鼓膜から入り込んだ声が胸の奥を刺激して。一度認めてしまえば、この感情は際限なく溢れ出して来る。

「……そんなことないです。私、嬉しかったです。自分の仕事が目に見えて形になったことなんて、なかったので」

全部九条のおかげだ。

「頑張りたかった。少しでいいから、課長に認めてもらいたかったんです」

課長のことが好きだと言ったら、どうしますか――?

きっと『迷惑だ』と言うだろう。答えは分かりきっている。それなのに、もうどうすることもできない。

「自分の仕事も私からの要求も、全て完璧にこなした。君はよくやった」

“よくやった“

九条からもらえた言葉に鼻の奥がつんとする。涙が溢れ落ちないようにきつく目を閉じた。

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