冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


 それから1時間ほど休んで課に戻った。強張る緊張をこらえ、すぐに九条の元に行く。

「先ほどはご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。会議室の鍵も課長が戻してくださったと聞きました。ありがとうございます」
「もう、大丈夫なのか?」

ノートパソコンから視線を外し、麻子を見上げた。向けられた視線に心臓がドクンと大きく動く。

「は、はい。もう完全に回復しました。ご心配をおかけしました」
「それなら良かった。ちょうど終業時刻だ。今日はこのまま帰りなさい」
「体調は大丈夫です。少し、今日のまとめだけして――」
「ダメだ」

鋭い声と眼差しに一刀両断される。

「……分かりました」

そう言って下がると、九条はもう仕事に戻っていた。


 まだ外は明るい。こんなに早い時間に帰ることなんてほとんどない。

「あれ、麻子じゃん」

後ろから美琴が走って来た。

「麻子がこんな時間に退社するの珍しいね」

麻子に追いついた美琴の笑顔が消える。

「って、どうしたの? 何かあった?」
「……私、あれだけ美琴に否定しておいて、コントロールできない感情にみっともなくなってるみたい」

美琴の顔を見たら、そんな言葉を吐き出していた。

「それって……」
「やっぱり、抑えきれなかった」

どうしても歪んでしまう笑顔を見て、美琴が優しく微笑んだ。

「それが恋だよ。ホントのね」
「迷惑でしかないだろうから、絶対に知られるわけにいかないけどね」

九条の噂について話すと、美琴が麻子の腕を掴んで立ち止まった。

「噂は噂。今度、ちゃんと確かめてみよう? それからでも遅くはない」

確かめる――そんなこと出来るはずもない。

「辛い時はいつでも話聞くから!」

麻子の肩に腕を回し歩き始める。元気付けようと、意識的に明るく振る舞っているのだと分かる。

「ありがとう、美琴」

苦しいのが恋なのかもしれない。
だとしたら、この先どこまで耐えられるだろうか。
 

 自分の心境がどうであれ、目の前には目まぐるしいほどの仕事がある。

「――田所さん、X社の反応は? 提案書を出してから一週間が経っている」
「あ、えーっと、まだ何も……」
「君からコンタクトは?」
「……いえ」

九条と田所のやりとりが、忙しないオフィスの中で一際浮きだった。仕事をしつつ耳を傾けてしまう。

「うちと四井で競合している状態だ。何をそんなに呑気にしているんです? あなたの怠慢で、うちの利益を何億消すつもりか?」
「すみません、これからすぐに連絡してみます」

目の前の席の田所が受話器を取る。

ここ最近は、九条から厳しく言われていたことと自分の仕事で手一杯で田所の仕事を肩代わりしていない。

「――山田さん、金利はこちらの要求を何があっても飲ませる。さつき銀行の融資課長のアポ取っておいてください」
「はい」

課長は、一体いくつの案件を同時にこなしているの――?

自分にとっては自分の案件が全てだった。でも、九条にとっては違うのだ。

それなのに、表情ひとつ変えずに朝から遅くまで仕事をしている――。

「……中野さん」
「ん?」

隣から呼びかけられて慌てて丸山に顔を向ける。

「W社の月次報告のドラフト、共有に入れておきました」
「ありがとう。チェックするね」
「顔色、かなり良くなってますね」

パソコンのディスプレイに視線を移すと、丸山がそう言葉をかけてきた。

「もう大丈夫。ガンガン仕事するからね」
「いつもの中野さんに戻ってる」

そうだ。仕事をしている時だけでも、いつもの自分でいなければ――。
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