冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「ああ、中野さん!」
会議の調整のため管理部門を訪れた後、廊下で突然声をかけられた。
「……藤原課長」
それは法務部の課長だった。麻子が新入社員の時の先輩で、四年前に九条の壮行会に誘ってくれた人でもある。
「うちの課員に聞いたよ。今度の案件、通ってよかったな」
「ありがとうございます。法務部の皆さんの助言のおかげで、抜かりなく資料が作れました」
契約条件の検討には、法務部の意見は不可欠だ。今回もかなりお世話になった。
「いやいや。今回、九条がかなり力入れてたみたいだし。中野さんの名前、幹部に覚えさせたかったんじゃないかな」
「え……?」
藤原を思わず見つめる。
「中野さん、A社との契約書の確認に来なかったことあったでしょ?」
「あの時は、本当に申し訳ありませんでした」
忘れるはずもない。九条に叱責された。あんなミスをするなんて、あの時の自分をまだ許せていない。
「九条自らうちに謝りに来ていたし処理もしていたから、それはいいんだけど。それより、九条はその後すぐに君に案件に携わらせた。九条は厳しい男だからね。無能だと判断した人間に大事な仕事は任せない。君を評価しているんだろうね。ミスを上書きさせたい思いもあったんじゃないかな」
課長が……。
「もちろん、君ならできるとあいつが判断したからだ。誰かに温情を与えるような優しい上司ってタイプじゃないからね」
そう言って藤原が笑った。
「九条は判断を間違えない。結局、君はあいつの期待に応えられただろ? 上層部も、中野さんのことえらく褒めているみたいだよ」
藤原と別れた後も、藤原の言っていた言葉がぐるぐると頭を回る。
そんなことを聞いて、どうやったら好きになるのをやめられると言うのだ。それどころか、この気持ちは大きくなるばかりだ。
課に戻る途中、リフレッシュルームに立ち寄ると、自販機の前に九条の姿があった。
その姿を見るだけで、ドクドクと心臓が暴れ出して近づけなくなる。背筋の伸びた背中とカップを持つ長い指。これでもかというくらいに、鼓動が加速度的に速くなる。
「……ああ、君か」
無言のままで立ち尽くしていたせいで、九条がこちらに気づいてしまった。
「体調はどうだ?」
「おかげさまで、昨日ゆっくり休めたのでもう万全です」
真正面の姿は直視できない。つい俯きがちになってしまう。
「確か、体力と根性はあるんだったな」
「は、はい。体力も本当はあるんです。今回は例外ですから、もうこのようなことはありません。今後もこき使ってください……っ!」
――って、私は何を言っているんだ!
「私が本気でこき使ったら、こんなもんじゃないぞ?」
「それでも構いません」
課長が言葉を返してくれた――それに今度は舞い上がる。
「君はマゾか?」
「……そうかも、しれません」
九条のものならどんな言葉だって態度だって、それが自分に向かうなら何だって嬉しい気がして来る。
「……ったく」
「え……?」
「いや」
咳払いをして、九条が紙コップをゴミ箱に捨てリフレッシュルームを出て行く。出入り口のところで立ち止まると、麻子に顔を向けた。
「あの体調で、役員説明をやり通した根性は認めよう。その根性とやらで頑張るんだな。そうしたら、日本で一番稼げる会社員にしてやる」
課長は、あの日の会話を覚えてくれている――?
「せいぜい金のために働け」
そう言って、部屋を出ていく。
「はい、働きまくります!」
九条の言葉一つで感情はジェットコースターのように激しく揺れる。この気持ちはきっと消せないだろう。それでいて、報われる日が来ることもない。
でも、仕事をしている限りは、上司と部下として側にいられる。
それでいい。それで十分だ。
そう思えると思っていた。