冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「課長、待ってください。早く戻って、謝りましょう!」
腕を強く掴まれ、最上階のフロアをずんずんと進んで行く九条に叫ぶ。それでも、その背中はこちらに振り返りもせず止まりもしない。
「課長――」
「君は、なぜ、あんなことをされて黙っていた!」
人目につかない突き当たりまで来て立ち止まると、麻子の腕を勢いよく離した。向かい合った九条の表情は、何故か怒りを露わにしている。
「あれくらい耐えればいいだけのことです。それで久留米常務の機嫌を損ねなくて済むなら、どうってことないです――」
「どうってことない? あんなに真っ青な顔をして、どの口が言う?」
声を荒げたことなどない人が、どこか感情的に言葉を発している。どうして九条がそこまで怒るのか理解出来ない。
「ブライトン社は大切なビジネス相手ですよね? この契約が今後の大きなプロジェクトにも繋がるものだと聞いてます。ここで失敗なんかしたら、課長はどうなりますか?」
利益のためならどんなことでも冷静に判断して来たはずだ。そうやって、今、その地位にいる。
なのに、どうして――。
「――私の、ためか」
気付けば、ガラス張りの窓に追い詰められて、長身の九条の影が麻子を覆う。
「い、いえ、そうではなくて……っ」
「私のために耐えたのか。答えろ」
至近距離で射抜くように見下ろされ、激しく打ち乱れる鼓動に胸のあたりをきつく握りしめる。耐えられなくなって、九条から視線を逸らした。
「……どうして、そんなに怒るんですか? 私は、部下として課長の役に立ちたかった。それだけです。本当に、あの程度のことなら耐えられます――」
「私が耐えられないんだ」
え――?
「君が、あんな風に触れられるのが耐えられなかった」
見上げた先にあったレンズ越しの目は、何かに堪えるように僅かに歪んでいた。
「簡単に自分を差し出すな」
いつも冷たさをたたえている切れ長の目に込められた何か。それが何なのかわからないのに、ただ自分を見つめる眼差しに痛いほどに胸が痛い。痛みを隠そうと俯いても、逃げられない。