冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
「……どうして、そんなこと言うんですか。放っておいてくれればいいじゃないですか」
必死に、懸命に、平静を装って無かったことにしようとしているのに。どうして心をかき乱して来るのか。怒りさえ込み上げる。
「忘れようと必死で……なのに、そんなこと言われたら、もっと忘れられなくなるじゃないですか」
ダメだ。ここでおかしなことを言ってしまったら、九条を想う気持ちを無理やりに押し込めて来たことが無駄になる。
もう、あんな惨めな思いはしたくない――。
「忘れられないか」
頭上から、いつもの抑揚のない声ではない、切なさの滲む声が落ちて来て。冷たいものが頬に触れる。
遅れて、それが九条の手のひらだと気づく。どうしてそんなものが自分の頬に触れているのかわからないのに、それが心を素手で掴むみたいに感情を引き摺り出した。
「……忘れられないです。私は――」
頬から後頭部へと長い指が滑り込み、そのまま強く抱き寄せられた。硬いスーツの生地が頬に触れて、この状況に混乱する。
「か、課長――」
「私は、誰かを幸せにできるような男ではない。君が見たままの冷たい男だ」
九条の胸に抱きしめられ、シトラスにアルコールの匂いが混じった香りに包まれた。
現実なのか、夢なのか。
九条がこんなことをするはずはないと頭の片隅で思いながら、伝わる九条の腕の強さに想いが溢れる。
「それでも、どうしようもないんです。苦しいって分かっていても、忘れられなくて。私は課長が好きなんです」
その胸に縋り付く。離れてほしくなくて胸元のジャケットを強く掴んだ。
いつもの自分なんてどこかに行って、コントロールできない感情に支配された子供みたいにみっともない姿になる。なのに、そんな自分を九条はより強く抱きしめた。
「――君のことは、部下以上の存在にしたくなかったのに」
掠れた声で吐かれた九条の言葉の意味を考えようとしたけれど、好きな人に抱きしめられて感じた初めての幸せに心は埋め尽くされる。