冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜

 九条に連れて来られたのは、マンションの近くにあるカフェだった。

 九条がよく使う店だと教えてくれた。プライベートエリアにまた一つ踏み入れることを許してもらえたみたいで、密かに喜ぶ。

「――君に、一つ頼みがある」

一人、心の中でニヤニヤしていると、九条がそう切り出してきた。

「なんでしょうか」
「私たちのことだが、職場では秘密にしたい」

手にしていたコーヒーカップを置くと、九条が真っ直ぐに麻子を見た。

「周囲に悟られないように、君も気をつけてほしいんだ」

あ……。

どうしてだろう。今、胸がチクっとした。そんなの、傷付くようなことじゃない。

「は、はい。もちろんです」

慌てて笑みを作る。

「君とこういう関係になったからと言って、社内ではあくまで上司と部下。そこは(わきま)えてくれ」
「はい、わかりました」

当然のことだ。課長の立場もある。仕事だってやり辛くなるだろう。

「あ、あの」

心を奮い立たせて口を開いた。

「“こういう関係“というのは、課長は、私の、こ……恋人に、なってくださったと理解していいのでしょうか」

そもそも、『付き合おう』とも『好きだ』とも言われていないのだ。自分で『恋人』と口にするのにとんでもなく勇気を必要とした。

それなのに、口にしてすぐに怖気づく。

「……あ、でも、課長は以前『部下には手を出さないと』おっしゃっていましたし、違うなら違うとはっきり言っていただけると、大変助かるのですが――」
「……ふっ」

突然、九条が口元に指を当てた。

「あ、あの……?」
「ああ……ごめん。何でもないよ」

そう言いながらも、笑いを堪えている。

「確かに、部下には手を出さないと決めてたのにな。その決め事を破ってしまった」
「で、でも、まだ、手を出したわけじゃ……」

って、何を言ってるのだ! 

「昨晩、君の言っている意味で、手を出してほしかった?」
「決して、そんなつもりは……っ!」

少しは、いや、だいぶあったけど。

「"恋人”に、いつまでも手を出さずにいられるほど紳士ではないから。時間の問題だな。覚悟しておいて」

え?
つまり、どういうこと?
そういうことでいいの?

「恋人だと、思ってもいいんですか……?」
「そのつもりで、昨日君を部屋に泊めたんだ」

恋人……課長が私の恋人――。

冷静になればなるほど信じられなくて、その事実がうまく自分の中に入って来ない。

「まさか、自分が部下と付き合うことになるなんて、考えたこともなかった」

九条が独り言のように言葉を漏らす。

「私も、自分の恋人が課長だなんて全然実感できません……」
「何を言っている。全部、君のせいだろ?」
「何でですか? どうして?」
「自分で考えるんだな」

九条がいたずらっぽく笑みを浮かべ麻子を見て。ブラックコーヒーを口にした。

それが、大人の余裕なのか。

目の前に座る九条の姿を改めて見つめる。

質の良いものだと一目でわかる身体にフィットしたスーツ。すっきりと整えられた前髪のおかげで、綺麗な形の額が分かる。真っ直ぐに伸びた眉と涼しげな目にメタルフレームのメガネが、より理知的に見せて。

そして、誰より有能だ。

誰がどこから見ても、洗練された大人の男。

そんな人が、自分の恋人になったことを、そう簡単に実感できるわけもない。


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