冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
昼食を食べ終えると、近くの駅まで九条に送ってもらった。
「ありがとうございました」
「ここまでしか送れなくてごめん。それと、これを」
運転席の九条に礼を言うと、一枚のメモ用紙を差し出された。
「私のプライベートの連絡先だ。携帯の番号とメールアドレス。私はメッセージアプリは使用していない。連絡するときはここにしてくれ」
「……はい」
九条の連絡先を手に入れて、麻子はまた一つ感動を覚える。
「今日中に君から電話をくれ。22時には帰宅しているから」
「それは構いませんが、何かあるんですか?」
不思議に思って九条の顔を見る。
「私も君の連絡先が必要だろ?」
「あ……なるほど……わかりました」
九条がくれる言葉一つ一つに喜びが込み上げて来る。
「じゃあ後で」
「はい、夜、電話します」
走り去る車をしばらく見つめていた。
アパートの部屋に戻り完全に日常に戻っても、ドキドキがおさまらなかった。
私、本当に課長と付き合うんだ……。
6畳の和室にぺたりと座り込む。
何もかもが夢のようだけれど、現実に起こったことだ。
どうして九条が自分と付き合うことにしたのか、正直なところわからない。一ヶ月前にはこっぴどく振られている。九条の中で何が変わったのか、全く思い当たる節もない。
そもそも、課長は私のことを好きなのだろうか――。
多分、それはない気がする。九条が、年下の部下に、それも、大人の女とは程遠い自分のような女に恋愛感情を持つとは思えない。
それを証拠に、一晩一緒に過ごしても、キスすらして来なかった。それは、女として見られていないからと考えるのが普通だろう。
それでも付き合うことにしたのは、金曜日の接待での出来事が理由なのかもしれない。
自分のためにセクハラに耐えた部下に、同情したから……。
そこまで考えて頭を振った。考えたところで、答えなんて分からない。
それより、課長のそばにいることを許してもらえた。そのことを喜びたい。
九条がどんな気持ちであろうとそばにいたいと思うのだ。どうせなら、少しでいい、九条に楽しいと思ってもらいたい。